十字軍が東地中海の建築にもたらしたもの

2021年 05月25日

執筆者:樋口 諒

1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけで結成された十字軍は1099年に聖地エルサレムを占領することに成功した。これ以降、これまで主にビザンティン帝国とイスラーム諸王朝とで勢力争いの舞台となっていたエルサレムを含む東地中海沿岸地域にカトリックを信奉する西欧の人々によって十字軍国家が建てられた。さらに第4回十字軍によってコンスタンティノープルが陥落(1204年)すると、エーゲ海沿岸部にまでラテン人の国家が出現するようになる(図1)。そこで本稿では12〜13世紀を中心に十字軍建築とビザンティン建築やイスラーム建築の関係性についてみていきたいと思う。しかし本題に入る前に一点確認しておきたいことがある。それは西欧の人が奉じるカトリックとビザンティン帝国の人々が信仰した正教とでは、同じキリスト教とはいえその礼拝の方法に多少なりとも違いがあり、恐らくはこうした相違に伴って必要とされていた教会堂の形も違っていたという点である。それを端的に示すのがキリスト教の聖地エルサレムに建てられた聖墳墓教会(写真1)である。

図1 第4回十字軍(1204年)後の東地中海沿岸部
(Haldon, John. The Palgrave Atlas of Byzantine History. Basingstoke, UK: Palgrave Macmillan, 2005. を元に筆者が作成)
写真1 聖墳墓教会の外観
CC BY-SA 4.0(撮影:Gerd Eichmann)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=95703949

キリストの受難と復活を記念した聖墳墓教会は、キリストが磔刑に処されたゴルゴタの丘の周辺に建てられたものである1。最初期の建物は、4世紀にビザンティン皇帝コンスタンティヌス1世の命で創建された。その当時の構成をみてみると、図1のように建物の一番東にアトリウムが配され、そのすぐ西側に五廊式バシリカの教会堂(2)がある。さらに西側には列柱廊で囲われた中庭(3)があり、ゴルゴタの丘(4)はその南東部に位置している。キリストの墓(6)は、この中庭のさらに西側にあり、それを囲うようにアナスタシス・ロトンダ(5)と呼ばれる円形堂が配されていた。東側に建物の入り口があり、そこから西側へ進むという構成は、キリスト教の建築としては一見奇妙なものだが、東側に聖域を置くことが定型化した5世紀以降の教会堂と異なり、4世紀頃の教会堂では地形的条件等で聖域を西側とすることもしばしばみられた2

1 ただし聖墳墓教会が建てられたのは、キリストの死後300年近くが経過した4世紀初頭であり、エルサレムの状況も様変わりしていたために、本当にこの地が磔刑の場所だったのかは定かではない。とはいえこの地が巡礼者達の間で古くからキリストの磔刑の場所として信じられていたのは確かである。コンスタンティヌス帝以前の時代の状況についてはコルボが概略している。Cf. Corbo 1981, 27–37, 221.
2 たとえばローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラの教会堂やバチカンの初代サン・ピエトロ大聖堂など。Cf. Krautheimer 1986, 52ff.

図2 350年頃の聖墳墓教会堂の復元平面図(Corboを元に筆者が修正)
1. アトリウム、2. バシリカ、3. 中庭、4. ゴルゴタの丘、5. アナスタシス・ロトンダ、6.キリストの墓、7. 総主教宮

コンスタンティヌス帝による聖墳墓教会は、7世紀のペルシャとの戦争および10世紀の地震によって損害を受けた後、ファーティマ朝のハーキムによって1009年に破壊された。その後1048年頃にビザンティン皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの援助の元で再建される(図2)。これはコンスタンティノープルから工匠も派遣される大規模なものであった。その際にアナスタシス・ロトンダ(2)とその東の列柱廊(5)を伴った中庭は4世紀のものと同様に復元されたものの、中庭の東にあったバシリカ式の教会堂やアトリウムは再建されなかった。代わりに中庭の東側にはキリストの受難に捧げられた礼拝堂群(6〜9)が建立され、その東にはキリストの十字架の発見を記念するクリプト(地下聖堂:10)も設けられた。さらにロトンダの南北にも礼拝堂(12)や洗礼堂(13)が新設され、聖墳墓教会はロトンダと複数の礼拝堂から構成されるコンプレックスへと変貌した。ロトンダにはその東から中庭へ突き出るように半円形のアプシス(壁面に設けられた半円形平面に窪んだ部分のことを指し、主に聖域部にみられる)が新設され、他の礼拝堂の殆どもその東側にアプシスが設けられた。こうした構成から、11世紀の聖墳墓教会には、4世紀の構成とは異なり、東側に聖域を置くという明確な意図が窺える。

図3 11世紀の聖墳墓教会の復元平面図(Corboを元に筆者が修正、斜線部分は変更部分を示す)
1. 総主教宮、2. アナスタシス・ロトンダ、3. 墓の小祠、4. 中庭、5.世界の中心(オンファロス、6. 神聖な牢獄、7. 鞭打ちの礼拝堂、8. 茨の冠の礼拝堂、9. 服の分配の礼拝堂、10. キリストの十字架発見のクリプト、11. 磔刑の丘、12. 聖母の礼拝堂、13. 洗礼堂

その後、第1回十字軍によって建国されたエルサレム王国時代の12世紀初頭より十字軍にによる改修が始まり、1149年に改修が完了して再献堂され、ほぼ現在と同様の構成となった。これはロトンダの東側のアプシスと既存の建物群を取り払ってロマネスク風の建物に置換えるものであり、その結果中庭とその東の礼拝堂群は撤去され、代わりに短い袖廊とドームを持つ交差廊、内陣(4)、周歩廊を伴った後陣(8)、放射状の祭室といった諸要素が付加され、ロトンダは東に拡張された。さらに入り口も南側に改められた(12)。磔刑の丘の礼拝堂(11)も南の交差翼に収められ、キリストの十字架発見のクリプト(10)も聖ヘレネの礼拝堂(9)を介して直接周歩廊と接続しており、結果として聖墳墓教会全体が全て屋根で覆われた一つの構造物となった。

図4 12世紀の聖墳墓教会の平面図(Corboを元に筆者が修正)
1. 総主教宮、2. アナスタシス・ロトンダ、3. 墓の小祠、4. 十字架の内陣、5. 聖母の礼拝堂、6. 洗礼堂、7. 神聖な牢獄、8. 周歩廊、9. 聖ヘレネの礼拝堂、10. キリストの十字架発見のクリプト、11. ゴルゴタの丘、12. 扉口

こういった聖墳墓教会の11世紀と12世紀の状態の相違、すなわち小規模な教会堂の集合体と大きな一つの教会堂という相違は、ビザンティン建築と西欧の建築で志向する建築が違ったことを我々に伝えてくれる。コンスタンティノス9世モノマコス治政は、6世紀のユスティニアヌス帝の頃に次いでビザンティン帝国の領土が広かった時代であり、それ相応の経済力を有していた時代でもある。わざわざコンスタンティノープルから工匠を派遣している点からもビザンティン帝国側の力の入れようは並々ならぬものがあった3。しかし、その結果再建された聖墳墓教会は複数の礼拝堂群から構成されるものであり、十字軍による聖墳墓教会のような大きな内部空間を有するものではなかった。聖墳墓教会に限らずビザンティン建築では、ユスティニアヌス帝によって創建されたコンスタンティノープルのハギア・ソフィア以降、巨大な建築を志向する傾向はほとんどみられなくなる。ロマネスクやゴシックといった西欧の建築がより広く、より高く、より大きな建築を志向し続けたのとは対称的である。このようなビザンティン建築について、かつてはその技術的な水準が低下したために建築の規模が小さくなったとの捉え方が趨勢を占めていたが、現在ではこのような違いはむしろビザンティンと西欧での礼拝の方法の違いに起因すると理解されている4。すなわち、少人数で礼拝することが一般的であり、大規模な礼拝空間が要求される事例は少なかったために、ビザンティン建築では小規模な教会堂が多いのである。11世紀と12世紀の聖墳墓教会は、こういったビザンティン建築と西欧の建築との違いを如実にあらわしているといえる。

3 但し、全ての建造をコンスタンティノープル工匠が担ったわけではなく、現地の工匠も建造に関わったようであり。Cf. Ousterhout 1989, 72–76.
4 Ousterhout 1996, 23.

さて、こうしたラテン人とビザンティン人の志向する建築空間の相違を踏まえた上で、十字軍建築と東地中海建築の関係性についてみていきたいと思う。そのためにまず押さえておきたいのが、ラテン人によって西欧の建築がこの地域に持ち込まれたという点である。従って当時の西欧の建築の様式を反映して、11世紀にはロマネスク様式の建築が建立され、12世紀にはゴシック様式の建築がこの地域に出現した。ロマネスク建築の一例として、十字軍によってベイルートに建てられた聖ヨハネ教会堂(現ウマリー・モスク)があげられる(写真2)。この三廊式バシリカの教会堂は内法寸法で長手方向に約34.5m、短手方向に約20mとなるものであり、東端に3つの半円形のアプシスを有している。身廊と側廊はともに横断アーチによって5つのベイに分割されており、交差ヴォールトの架かった側廊よりも背の高い円筒ヴォールト架構の身廊には採光のための高窓も設けられた。さらにヴォールトを支える矩形の柱にはその四辺にそれぞれ半柱が附属し、玄関廊の柱の形式やかつて存在していたとされる西側の2つの塔5(西構え)を備えており、この教会堂からはロマネスク様式としての特徴が明確に窺える。

5 Pringle 1993, 113.

一方ゴシック建築の例としては、キプロス島のファマグスタ(トルコ語名:ガージマーウサ)にある14世紀の聖ニコラオス教会堂(現ララ・ムスタファ・パシャ・モスク)があげられる(写真3)。モスクへ改修時にミナレットが附設されたものの、その西面ファサードは尖頭アーチやトレーサリー、飾り迫縁などによって構成され、内部にはリブ・ヴォールトを使用し、フライング・バットレスも用いられた典型的なゴシック様式の教会堂である。こういったロマネスクやゴシックの教会堂は、十字軍勢力が盛強だった14世紀頃まで東地中海地域に多く建立された。それらの建築作業を実際に担った工匠達は現地の人々だったため、ビザンティン建築やイスラーム建築への十字軍建築の影響が予想されるが、実際には十字軍建築によって空間が極端に変化したようなことはなかったとされるのが通説である6。例えばビザンティン建築における鐘楼は、かつて第4回十字軍によって西欧からビザンティン建築にもたらされたとされてきた7。しかし実際には第4回十字軍以前の事例がビザンティン建築においても見出されており、西欧起源だったとしても十字軍によってもたらされたものではないと考えられている8。例外的な例がギリシャの西部アルタにある聖母に献げられた教会堂カトー・パナギアに代表される形式であり、中期以降のビザンティン建築で一般的だった内接十字と呼ばれる形式において中央に配置されるドームの代わりに円筒ヴォールトを架構するものである(図5)。このような円筒ヴォールトが東西軸と直交する方向に架けられる形式は、ロマネスクないしゴシックの典型的な袖廊の形式を模したものである可能性が指摘されている9。とはいえ、このタイプの教会堂は13世紀以降に僅かにみられるようになったものにすぎないため、西欧の建築がビザンティンの建築空間に多大な影響を及ぼしたとは言いがたい。また、オレグは十字軍の城塞建築がイスラームの城塞建築へ一定の影響を及ぼした可能性を指摘しているが、十字軍建築によって城塞建築が劇的に変化したわけではない10。このようにビザンティン建築にせよイスラーム建築にせよ、十字軍建築から大きな影響を受けたとは言いがたかった。

6 ビザンティン建築と十字軍建築の関係性についてはBouras 2001、イスラーム建築と十字軍建築の関係性についてはOleg 2001に詳しい。
7 Mango 1992, 146.など
8 Ćurčić 2010, 492–93.
9 Bouras 2001, 267–68.
10 Oleg 2001, 238.

写真2 ベイルートの聖ヨハネ教会堂外観写真
パブリック・ドメイン(撮影:Aboluay)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12311643
写真3 ファマグスタの聖ニコラオス教会堂外観写真
CC BY-SA 3.0(撮影:Gerhard Haubold)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=682741
図5 アルタのカトー・パナギア教会堂断面透視図
(Kalopissi-Verti, Sophia, and Maria Panayotidi-Kesisoglou, eds. Multilingual Illustrated Dictionary of Byzantine Architecture and Sculpture Terminology. Herakleion: Creta University Press, 2010をもとに筆者作成)

ただし東地中海の建築に対して、十字軍建築が全く影響を及ぼさなかったかというとそういうわけではない。十字軍建築の影響が最もみられるのは装飾的な部分である。ビザンティン建築において西欧的な建築要素が頻繁にみられるようになるのは、1204年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが十字軍によって陥落し、その領域が十字軍国家とビザンティン帝国の後継国家によって細分化された13世紀以降のことである(図1)。ここではその事例として、13世紀にペロポネソス半島を支配した十字軍国家の一つ、アカイア公国が支配したメルバカとイェーラキという2つの町に残る教会堂を紹介していきたい。まずメルバカにあるキミシス(聖母の眠り)の教会堂だが、こちらの教会堂ではその外部に西欧的な要素が散見される(写真4)。例えば中央のドームを支える鼓胴部の細円柱の柱頭には、クロケットと呼ばれる葉飾りが鉤状に巻き上がる装飾が使用されており、これはゴシック建築でしばしばみられる装飾要素である。

写真4 メルバカのキミシス教会堂(a)外観写真(筆者撮影)
写真4 メルバカのキミシス教会堂(b)ドーム部分の拡大写真(筆者撮影)

イェーラキはペロポネソス半島の要衝であるスパルタ(および近接するミストラス)とモネンヴァシアを結ぶ戦略上重要な拠点であったため、現在まで中世の城塞が残っている。城塞には小規模ではあるものの九つの教会堂が現存しており、それらは建築的な空間構成からも壁画等の様式からも一見するとビザンティン建築の典型的なものと捉えられるが、同時に西欧的な要素が散見される。例えば城塞内に現存する聖ゲオルギオスの教会堂(写真5)と聖パラスケヴィ(金曜日)の教会堂(写真6)がそうである。両教会堂内にはプロスキニタリアと呼ばれる壁画を枠どる構造物があり、これはビザンティンの教会堂においてその教会堂を捧げられた聖人(献堂聖者という)、ないしはキリストや聖母子といった重要な図像を枠どるもののことを指す。聖ゲオルギオスのプロスキニタリア(写真7・図8)は五角形の家形のような形状となっている。その中央にはアーチ開口が設けられ、アーチの頂部にもう一つ小さなアーチが設けられることでさながら三弁型アーチのような開口となり、そこから献堂聖人であるゲオルギオスが窺える。外側の二本の円柱のゴシック的な柱礎、プロスキニタリアの頂部にある楯の文様11、縦横にアーチ開口を縁取るように飾られたレース模様など西欧的な要素が多くみられる12。聖パラスケヴィ教会堂のプロスキニタリアでは(写真8)、献堂聖人を囲う枠組みのアーチ開口部分にビザンティンでは一般的でない尖頭アーチが用いられると共に、アーチ開口の右側にビザンティンではあまりみられない動物の彫刻(猫とされる)が施されている。アーチ開口の下部の四つの円には、その左側二つには四足動物が描かれ、右側二つには鳥が描かれており、ビザンティンではそれまで一般的でなかった装飾的要素がみられる。こういった教会堂は、十字軍国家に残された西欧式の教会堂とは明確に異なるものであり、ビザンティン建築の特徴を基本的に踏襲していることから、ビザンティンの人々、すなわち正教徒のための教会堂が西欧的な装飾要素の一部を受容したものといえよう。

11 イェーラキの領主だったニヴェレ家の縦型紋章とされる。Dēmētrolallēs 2001, 45–47.
12 アーチ開口の右側に刻まれた百合の花の装飾に関しては、アカイア公国のアンジュー家が百合の紋章のためにそれに由来すると考える研究者もいるが、一方でビザンティンにおいても12世紀には既に見られていた装飾である。Cf. Dēmētrolallēs 2001, 78–81.

写真5 イェーラキの聖ゲオルギオス教会堂外観写真(筆者撮影)
写真6 イェーラキの聖パラスケヴィ教会堂外観写真(筆者撮影)
写真7 聖ゲオルギオス教会堂のプロスキニタリア(筆者撮影)
図6 聖ゲオルギオス教会堂のプロスキニタリア
(Traquair, Ramsay. “Laconia: I. Medieval Fortress. The Churches of Western Mani.” The Annual of the British School at Athens 12 (1905–06): 159–276. Plate IV.)
写真8 聖パラスケヴィのプロスキニタリア(筆者撮影)

アカイア公国に限らず他の十字軍国家の領域内のビザンティン建築にもこういった西欧的な装飾要素は確認されるが13、ビザンティンの後継国家であったイピロス公国14でも、西欧との地理的な近さや十字軍国家との近接性からか、ゴシック的な要素が建築にみられるようになる。例えばイピロスの首都アルタにおいて、君主一族によって創建されたパナギア・パリゴリティッサ(慰めの聖母)の教会堂(写真9)は、その建築構成としても他に類を見ないとても特殊な建築形式の教会堂であり、さらにその装飾も非常に特殊なものである。図6のように中央のドームを冠した矩形空間は、八角形状に並べられた8本の付柱と円柱が迫り出しつつ3層にわたって積み上げられることによって構成される。3層にわたって積み上げられた付柱と円柱の上にはそれぞれ2本ずつ計16本の小円柱が載せられ、その半分はドーム下のペンデンティヴ部分に設けられた三弁型アーチを支え(写真10)、もう半分は具象的な彫刻を施された飾り迫縁を支えている(写真11)。残念なことに小円柱にせよ三弁型アーチや飾り迫縁にせよ一部のみしか現存しないが、これらは西欧的な装飾の一例である。三弁型アーチ自体、ビザンティン建築ではあまりみられないものであることから、西欧の影響を窺わせるが、より注目すべき部分は、小円柱の柱礎に施された動物や植物などの具象的な装飾、および飾り迫縁に施されたキリスト教の説話的な装飾である。現存する飾り迫縁は北と西側のものであり、それ以外は失われてしまっているが、北の飾り迫縁にはキリストの生誕をあらわしたレリーフが施され、西のものには十字架を抱いた子羊のレリーフが施されている。これは神の子羊と呼ばれるもので、キリストの受難と磔刑を表象するものとして西欧美術では頻繁に用いられる図像であるが、正教会においては692年にコンスタンティノープルで開かれた公会議以降禁止され、7世紀以降みられなくなったものである15。このように伝統的なビザンティンの手法とは異なる装飾表現がパレゴリティッサではみられるのである。

13 例えば、アテネ公国によって支配されていたアテネ近郊ガラツィの聖ゲオルギオスの聖堂など。Cf. Bouras 2001, 251–52.
14 イピロスでは、その君主号が13世紀にたびたび変化したが、本稿では煩雑さを避けるため、すべて公国で統一した。Cf. Oxford Dictionary of Byzantine, s.v. “Epiros, Despotate of.”
15 Oxford Dictionary of Byzantine, s.v. “Lamb of God.”

写真9 アルタのパナギア・パリゴリティッサ外観写真(筆者撮影)
図7 パナギア・パリゴリティッサ断面透視図
(Orlandos, Anastasios, Η Παρηγορήτισσα της Άρτης. Athens: Athēnais Archaiologikē Etaireia, 1963. をもとに筆者作成)
写真10 パナギア・パリゴリティッサ、ドーム下の三弁型アーチの写真(筆者撮影)
写真11 パナギア・パリゴリティッサ、
ドーム下の飾り迫縁に施された彫刻写真(筆者撮影)

イスラーム建築においても十字軍建築への影響はやはり装飾面にみられるが、それはビザンティン建築よりもさらに限定的である。例えば小アジアのディヴリーイという町にある大モスクと病院のコンプレックスにみられる通常よりも広い扉口に刻まれた植物的な装飾は(写真11)、現地のキリスト教装飾やイスラーム教装飾の伝統とも異なったロマネスク的特徴が指摘されており16、もしそうであれば十字軍によって媒介されたのだろう。また十字軍に占領された際にモスクへ施されたキリスト教的な装飾等は、アイユーブ朝やマムルーク朝が中東の諸都市を奪還した際に、取り払われたとされるが、一方で十字軍建築の遺構の一部をイスラーム建築の施設へ転用することはしばしばみられた。例えばカラーウーンの寄進施設においても、廟とマドラサとの間に設けられた入口上部の開口には金属細工がはめ込まれており、十字軍からの戦利品であると伝えられている17。さらに、こうした十字軍建築の転用材の中でも一際名高いのがマムルーク朝によってアッカーが奪還された際にカイロへ移送されたゴシックの教会堂の扉口であり、これはカラーウーンの宗教施設の北にある、スルターン・ナースィル・ムハンマドのマドラサの入り口に用いられている(写真12)18

16 Oleg 2001, 237–38.
17 Blair and Bloom 1995, 74. 但し、VRツアーでの当該部分の解説部分にもあるように、現存の金属細工が本当に十字軍のものかは定かではない。
18 Ousterhout 2019, 499–500.

写真12 ディヴリーイの大モスクと病院、扉口
CC BY-SA 3.0(撮影:Mxcil)
画像:Wikimedia Commons (https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19926861
写真12 スルターン・ナースィル・ムハンマドのマドラサ、扉口
CC BY 3.0 (撮影:Martyn Smith from Redlands, California)
画像:Wikimedia Commons (https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14526729)

このように十字軍建築がビザンティン建築やイスラーム建築に対して及ぼした影響は決して大きなものではなかったのだが、実は地中海の中央にラテン文化・ビザンティン文化・イスラーム文化が融合した島がある。ノルマン・シチリア王国の支配下にあったシチリア島である。イスラーム勢力の強い影響下にあったこの地は、もともとビザンティン帝国領でもあり、多くの正教徒が存在していた。11世紀にノルマン人のもとで南イタリアとシチリア島が統一され、シチリア・ノルマン王国となるとラテン、イスラーム、ビザンティンの文化が融合した独特の文化を形成し、その首都パレルモは国際として大いに繁栄した。12世紀のカペッラ・パラティーナ(写真13)やラ・マルトラーナ(写真14)などは、その内部がビザンティンの工匠によるモザイク装飾で覆われ、ムカルナスやアラビア語銘文のようなイスラーム的な要素も伴った西欧的な教会堂であり、国際都市としてのパレルモの状況が如実に反映されたものといえよう。のちにこの地に育ったシチリア国王でありかつ神聖ローマ皇帝でもあったフリードリヒ2世は語学に堪能な国際人であり、第六回十字軍の際には和平交渉によって聖地エルサレムを奪還するという離れ業をやってのけた人物である。この地の建築を十字軍建築とするのはさすがに強引だろうが、十字軍に伴って生じた西欧、ビザンティン帝国、そしてイスラーム王朝の文化的な交流を色濃く残す建築群がこの地には現在まで残されているのである。

写真13 カペッラ・パラティーナ教会堂の内観写真。(筆者撮影)
写真14 ラ・マルトラーナ教会堂の内観写真。
ドームの下で傅く四天使の下にはアラビア語の銘文がある。(筆者撮影)

参考文献

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Blair, Sheila S. and Jonathan M. Bloom. The Art and Architecture of Islam:1250–1800. 1994. Reprint, Harmondsworth: Yale University Press, 1995.

Bouras, Charalambos. “The Impact of Frankish Architecture on Thirteenth-Century Byzantine Architecture.” In The Crusades from the Perspective of Byzantium and the Muslim World, edited by Angeliki E. Laiou and Roy Parviz Mottahedeh, 247–262. Washington, D.C.: Dumbarton Oaks Research Library and Collection, 2001.

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執筆者プロフィール

樋口 諒(Ryo Higuchi)

名古屋大学高等研究院/人文学研究科・特任助教

1987年生。2018年東京工業大学で学位所得後、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2021年より現職。
https://researchmap.jp/ryo_higuhi

ひとこと

西欧でもアジアでもない地域の人々に魅せられて、そこに残された建築を通じてこの地域の文化を何か知ろうとしてきました。現在はビザンティンを中心とした中世の地中海世界において、建設活動の主要な担い手であった工匠達がどのように経験的な知見や技能を継承・伝達し、どのように建物を作ってきたのか、そして彼らがどのようなことを考えていたのかということに関心を持ち、研究しています。

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