カラーウーンの寄進施設は、カイロの旧市街(カーヒラ)の中心に位置する。現在メガシティとなったカイロの都市としての始まりは、969年に遡る。シーア派の一派であるイスマーイール派を掲げて北アフリカのイフリーキーヤ(現在のチュニジア)に興ったファーティマ朝(909–1171)は、バグダードに首都を置くスンナ派のアッバース朝(750–1258)と対抗し、東方への遠征を重ねた。969年、第4代ファーティマ朝カリフ・ムイッズ(在位953–975)は、エジプトを支配するイフシード朝(935–969)の混乱に乗じて、シチリア出身の将軍ジャウハルをエジプト遠征に派遣した。ファーティマ朝軍は、ほとんど無抵抗でエジプトを制圧し、ジャウハルはカリフの王宮を置くための新たな王朝の首都を建設することとなった。この時にジャウハルが選んだのが、現在の旧市街の土地である。ジャウハルは新しい首都を、アラビア語で勝利の街を意味する「カーヒラ」と名づけた。カイロは、この名称のヨーロッパなまりである。

ファーティマ朝時代のカイロは、東西1100m、南北1150mの小さな都城であった。それは市壁で囲まれ、その中央をムイッズ・リッディーン・ラー通り(以後、ムイッズ通り)が南北に貫き、北端にはフトゥーフ門、南端にはズワイラ門が置かれた。この道の中間地点の両端に東の王宮と西の王宮が建設され、そこがファーティマ朝カリフの座する場所となった。二つの王宮の間には、儀礼のための広場が設けられており、「バイナル・カスライン(二つの王宮のあいだ)」と呼ばれてきた。カラーウーンの寄進施設が位置するのは、まさにバイナル・カスラインの西側に置かれた西の王宮跡地である。

1200年以前の旧市街(カーヒラ)の図
出典:Stanley Lane-Poole, 1905: 184.
画像:Internet Archive Book Images (https://www.flickr.com/photos/internetarchivebookimages/14782234955/)

当初、カイロは、宮殿と軍隊の宿舎、そしてモスクだけのために作られ、限られた者しか居住することのできない空間であった。970年に東の王宮の南東に建設されたアズハル・モスクは、ファーティマ朝が奉ずるシーア派の一派であるイスマーイール派の学知の拠点として機能した。しかし、1047年にエジプトを訪れたイラン人のナースィル・ホスロー(1061年没)は、カイロに2万以上の店舗や、数え切れないほどの隊商宿や浴場があると述べており、建設から70年余りを経て、カイロが賑やかな市街地となっていたことがうかがえる。

現在のアズハル・モスク

1169年、ファーティマ朝の宰相に就任して実権を握ったサラーフ・アッディーン(サラディン、在位1169–93)は、ファーティマ朝を廃し、スンナ派のアイユーブ朝(1169–1250)を創始した。彼は、カイロの南東にそびえるムカッタム山の岬角に「山の城塞」を建設し、そこを新たな政治・行政・軍事の拠点とした。これによってファーティマ朝が建設した城壁内の空間は城下に位置することとなり、その政治的拠点としての機能は失われた。また、スンナ派イスラームの復活を目指したサラーフ・アッディーンは、アズハル・モスクで行われていたイスマーイール派に関する講義と、金曜モスクとしての機能を停止した。さらに、ファーティマ朝王宮に置かれていた図書館(知恵の館)の蔵書を売却し、イスマーイール派教義の研究・教育センターとして機能してきた図書館を閉鎖した。

しかし、ファーティマ朝が築いた城壁内の空間は、城塞を頂点とする城下町の中心地としてアイユーブ朝以後も発展を続けた。アイユーブ朝時代には、新たな市壁が、城下や、水流が西に移動したナイル沿岸に延びるように建設されていった。このことは、カイロが城下町としてさらに発展し、人口が増加していったことを示している。

19世紀末から20世紀初頭頃に撮影された山の城塞の写真
(出典:Photoglob Co., Publisher. Kairo, la Citadelle. Cairo Cairo. Egypt, ca. 1890. [Zürich: Photoglob Company, to 1910])
画像:米国議会図書館 [https://www.loc.gov/item/2017657143/]

次のマムルーク朝時代(1250–1517)に入ると、スルターンや有力軍人、商人といった人々によって、モスクやマドラサ、隊商宿、給水施設などが寄進によって次々と建設された。かつてはファーティマ朝カリフの儀礼の場であったバイナル・カスラインは、人や物が行き交う商業空間として発展していったのである。また、かつてのファーティマ朝宮殿の敷地には、マムルーク朝のスルターンたちが、次々と大規模な寄進施設を建設した。そのうちの一人がカラーウーンである。カラーウーンは、もともとファーティマ朝の西の王宮があった場所に自身の寄進施設を建設した。また、その後には、彼の息子のスルターン・ナースィル・ムハンマド(在位1294–95, 1299–1309, 1309–1340)が、父の病院の北隣に自身の寄進施設を建設した。さらに、その北側には、スルターン・バルクーク(在位1382–89)が寄進施設を建設している。これにより、かつてのファーティマ朝王宮の跡地に、3人のマムルーク朝スルターンの大規模な寄進施設が立ち並ぶこととなった。

カラーウーンの寄進施設の位置
オレンジ色のピンがカラーウーンの寄進施設。点線は、ムイッズ通りを表す。
出典: Qalawun VR Project, “Qalawun VR Project,” ArcGIS online, Esri [https://arcg.is/0zPb4i].
カイロの歴史建造物
出典:Yaser Ayad, “Map of Islamic Cairo,”ArcGIS online,
Esri [http://www.arcgis.com/home/webmap/viewer.html? webmap=da7fac4fe3584bc0a784b5b35a62621a].

城下町の目抜き通りであるバイナル・カスラインは、王権の威光を示すのに適していたことに加えて、ファーティマ朝の王宮跡地は、大規模な施設を建設するための敷地を確保するには絶好の場所であった。石造りの堂々たる建造物とその壁面に刻まれた設立者の名前を目にした人々は、イスラーム王朝の統治者としてのスルターン権威を感じたことであろう。

スルターン・バルクークの寄進施設の門前から撮影したバイナル・カスライン。
最初に正面に見えるのは、カラーウーンの寄進施設のミナレット。

参考文献
Behrens-Abouseif, Doris. 2007. Cairo of the Mamluks: a history of the architecture and its culture. Cairo, Egypt: American University in Cairo Press.
Lane-Poole, Stanley. 1906. The story of Cairo. London: J.M. Dent & Co.
Sanders, Paul. 1994. Ritual, politics, and the city in Fatimid Cairo. Albany: State University of New York Press.
佐藤次高 1996. 『イスラームの「英雄」サラディン——十字軍と戦った男』. 講談社.
松田俊道 2015. 『サラディン——イェルサレム奪回』. 山川出版社.

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