中世におけるカーバ神殿と政治権力

2021年 03月01日

記事ID:0007

タグ:歴史文化カーバ神殿

執筆者:大津谷 馨

カーバ神殿は、イスラームの聖地メッカの聖モスク(アラビア語でマスジド・ハラーム)の中心部にある石造りの神殿で、幅10メートルの立方体に近い形をしている。ムスリム(イスラーム教徒)は、このカーバ神殿の方向に向かって礼拝する。また巡礼の際には、この神殿の周りを反時計回りに7周する。この儀礼をタワーフという。神殿の東角には天からもたらされたと信じられている黒石が高さ1.5メートルほどのところにはめ込まれており、タワーフの起点となっている。黒石は神殿の中でも特に重要な存在であり、巡礼者たちは手で触れ接吻しようと押し寄せる1。このように、カーバ神殿は、ムスリムにとって聖地メッカのなかでも中心的な場所である。

1 Riḥlah, 1: 373–374;『大旅行記』2: 102–103.

この神殿は、アラビア語でキスワと呼ばれる覆い布で覆われている。教科書や新聞などで、メッカの聖モスクの中心部にある黒い布の掛けられた立方体の建物の周りを、白い衣装をまとった巡礼者が回っている写真を見たことがある方もいらっしゃるだろう。このカーバ神殿を覆っている黒い布こそがキスワである。現在では、サウジアラビア政府によって毎年黒の絹製のキスワが奉納されている2。この布は、マムルーク朝期には毎年公式の巡礼隊とともに聖地に送られ、前年のものと取り替えられていた。キスワを奉納するという行為は、聖地の守護者としての支配者の威信を示すという象徴的役割を担い、ムスリム諸国の君主たちによって自らの支配を正統化する一つの手段として利用されてきた3

2 日本でも、大阪にある国立民族学博物館で現代のキスワを見ることができる。民族学博物館では、1970年に開かれた大阪万博の際にサウジアラビア政府から寄贈されたキスワが展示されている(西尾, 2017)。

3 ʿAnqāwī, 1974: 156–157; Dekkiche, 2014–15: 257–258; Meloy, 2019: 14; Mortel, 1988: 39, 43–44; Van Steenbergen, 2016: 14, 18. イスラーム以前から15世紀までのキスワの歴史については、Mortel, 1988.

このキスワの奉納を巡って、13世紀から15世紀にかけて君主たちの間で起こった駆け引きを見ていくことにしたい。まず政治的背景について簡単に説明すると、10世紀後半から20世紀初頭までメッカは、預言者ムハンマドの子孫の家系の一つであるハサン家の者たちによって支配されていた。エジプトやイエメンなどに拠点を置いたムスリム諸国は、彼らの任免などに干渉することで間接的に政治的影響力を及ぼそうと試みていた4。13世紀前半以来、イエメンのラスール朝(1229–1454年)はメッカを一時占領するなど、聖地メッカの守護者としての役割を果たしており、定期的にキスワを奉納していた。しかし、13世紀半ばにエジプトで成立したマムルーク朝(1250–1517年)は二つの聖地メッカとメディナの守護者を名乗り、メッカでの政治的介入とともにキスワの奉納を始めた。そこで、ラスール朝との間でカーバ神殿の外側に飾るキスワをめぐる争いが起こった5。その後、マムルーク朝のスルターン・カラーウーン(在位1279–90年)は、1282年にメッカのハサン家の支配者アブー・ヌマイイ(1301年没)との間で、エジプトからのキスワを毎年飾るという約束を結んだ6。マムルーク朝スルターンにとって、キスワ奉納の権利を独占することは、二つの聖地の守護者としての自らの地位を固めるために必要不可欠なことだったのである。

4 Ota, 2002.
5 ʿAnqāwī, 1985: 12–13, 15–17; Dekkiche, 2014–15: 259–260; Mortel, 1988: 39–40; Ota, 2002: 9; Peters, 1994b: 149–150; Vallet, 2010: 456–457. ラスール朝のスルターン・ムザッファル(在位1250–95年)は1252年以降定期的にキスワを奉納しており、1261年には自ら巡礼しキスワを奉納した。それに対し、マムルーク朝のスルターン・バイバルス(在位1260–77年)は1263年にメッカにキスワを奉納し、1269年に自ら巡礼した。イエメンのムザッファルは1268年と1273年に再度キスワを送った。史料によれば、ムザッファルの治世には、イエメンのキスワはしばしばエジプトの巡礼隊の出発後に飾られていた(Dekkiche, 2014–15: 259–260)。
6 ʿAnqāwī, 1985: 16–17; Dekkiche, 2014–15: 248, 257; Melville, 1992: 197–198; Mortel, 1988: 40; Ota, 2002: 9; Peters, 1994b: 149–150.

しかしその後も、マムルーク朝以外の君主たちによるキスワの奉納の試みは続いた。14世紀前半には、イル・ハン朝(1256–1335年)の君主アブー・サイード(在位1317–35年)が、メッカの支配者の地位をめぐる内乱に介入することで聖地での影響力拡大を図り、1319年にはキスワを携えたイラク巡礼隊を送った。だがこのキスワが飾られることはなかった7。また14世紀半ばから15世紀前半にかけてラスール朝スルターンによるキスワ奉納の試みも継続されたが、これも成功しなかった8

7 Broadbridge, 2008: 102; Dekkiche, 2014–15: 260; Melville, 1992: 202; Mortel, 1988: 40. マムルーク朝のスルターン・ナースィル・ムハンマド(在位1293–94年、1299–1309年、1310–41年)は翌1320年に巡礼し、聖地の守護者としての自らの地位を誇示した(Broadbridge, 2008: 102)。
8 1342年、1351年、1379年、1418年、1430年にラスール朝によってキスワが送られたという記録が残っている。これらのキスワも飾られることはなかった(Dekkiche, 2014–15: 260; Mortel, 1988: 40)。

15世紀半ば以降になると、メッカにおけるマムルーク朝の影響力が強まり、君主たちはキスワ奉納のためにマムルーク朝スルターンの許可を得ようと試みるようになった。1444年には、ティムール朝(1370–1507年)の君主シャー・ルフ(在位1409–47年)が、マムルーク朝のスルターン・ジャクマク(在位1438–53年)の許可を得て、カーバ神殿の外部ではなく内部に飾るキスワ9を送った。このキスワは、マムルーク朝スルターン・バルスバーイ(在位1422–38年)によって1423年に既に送られていたキスワとともに、神殿の内部に飾られた。しかしマムルーク朝のアミールたちや民衆は、この行為を、聖地の庇護者たるマムルーク朝スルターンの名誉を毀損し国の威信を傷つけるものと捉えた。彼らは首都カイロで暴動を起こし、キスワを携えたティムール朝の使者たちを襲ったのである10。以上のように、メッカにおいてマムルーク朝の影響力が徐々に強まっていく中でも、マムルーク朝以外の君主たちはキスワ奉納を試み続けた。カーバ神殿を飾るキスワは、ムスリム支配者たちにとって大きな象徴的意味を持っており、支配者としての威信をかけた争いの対象だったのである11

9 カーバ神殿のキスワというと、通常は神殿の外部を覆う布を指し、本文中で特に明記せずに言及したキスワも神殿外部を覆う布のことである。ただし先行研究によれば、神殿内部にも壁や天井を覆う布が飾られており、これは「内部のキスワ」と呼ばれていた。この「内部のキスワ」については、史料中での言及が少なく不明な点が多い。通常の外部のキスワと異なり、外から見えない場所にあるため象徴的な重要性は低く、室内に飾られるために劣化しにくいこともあり、毎年掛けかえられることはなかったようである(Dekkiche, 2014–15, 261–263; Mortel, 1988: 45)。例えば、1359年にスルターン・ハサン(在位1347–51年、1354–61年)によって送られた金刺繍入りの黒の絹製の内部のキスワは、1423年にスルターン・バルスバーイによって送られた赤の絹製の内部のキスワに取りかえられるまで飾られていた(Dekkiche, 2014–15, 261–262; Mortel, 1988: 45)。バルスバーイとシャー・ルフによって送られた内部のキスワは、1452年、マムルーク朝のスルターン・ジャクマクによって送られた内部のキスワに掛けかえられた(Dekkiche, 2014–15, 255; Mortel, 1988: 46)。これ以外にも、1261年にラスール朝のスルターン・ムザッファルが外部のキスワと内部のキスワ両方を奉納した記録が残っている(Dekkiche, 2014–15, 259; Mortel, 1988: 39, 45)。

10 ʿAnqāwī, 1985: 17–18; Broadbridge, 2008: 200; Dekkiche, 2014–15: 253–256; Gouda, 1989: 53; Meloy, 2010: 138; Mortel, 1988: 40.
11 このほか、1472年、アナトリア東部からイラン西部を支配下に置いたアク・コユンル(14世紀後半–1508年)の君主ウズン・ハサン(在位1453–78年)は、マムルーク朝スルターン・カーイトバーイ(在位1468–96年)に対し、メッカにキスワを奉納する権利を要求する書簡を送り、1473年にキスワを送った。しかしこの試みも失敗に終わった(ʿAnqāwī, 1985: 18; Dekkiche, 2014–15: 260; Melvin-Koushki, 2011: 196; Mortel, 1988: 40)。

次に、キスワの色や生地について見ていきたい。12世紀後半にイブン・ジュバイル(1217年没)が巡礼した際には、アッバース朝から送られた緑色の絹製のキスワが飾られており、赤い糸でクルアーンの一節が刺繍されていた12。14世紀前半に巡礼した旅行家イブン・バットゥータ(1368/9年没)は、キスワは黒色の絹製で白色の刺繍が施されていたとしている13。マムルーク朝の前半期にエジプトから送られたキスワはこのような比較的シンプルなものだったが、後半期になると金の刺繍など豪華な素材やデザインが取り入れられるようになった14

12 The Travels, 5: 83;『メッカ巡礼記』1: 239.
13 Riḥlah, 1: 372;『大旅行記』2: 100.
14 Dekkiche, 2014–15: 258–259; Mortel, 1988: 41–43.

キスワだけでなくカーバ神殿の鍵も、マムルーク朝のスルターンをはじめとする君主たちによって送られた15。神殿の鍵はシャイバ家というメッカの名家によって管理されており、イブン・バットゥータによれば、毎週の金曜礼拝の後および預言者ムハンマドの生誕祭の日に扉が開かれ、一般の巡礼者も中に入ることができた16。イブン・ジュバイルによると、神殿内部の床や壁には大理石が敷き詰められ、上部は金張りの銀で飾られていた。また細工を施した窓ガラスがはめられ、金や銀でできたランプが供えられていた17

15 現在は、世界各地の美術館でカーバ神殿の鍵を見ることができる。例えば、イスタンブルのトプカプ宮殿美術館には、マムルーク朝のスルターンたちから送られた複数の鍵が所蔵されている(Sourdel-Thomine, 1971: 60–75, 85, 90–93)。またカイロのイスラーム美術館では、マムルーク朝スルターン・シャーバーン(在位1363–77年)によって送られた1363年の銅製の鍵を見ることができる(Sayour, 2020)。さらにパリのルーヴル美術館には、マムルーク朝スルターン・ファラジュ(在位1399–1412年)によって送られた鍵が収蔵されている(“Clef de la Kaʿba”)。

16 Riḥlah, 1: 372;『大旅行記』2: 99.
17 The Travels, 5: 82–83;『メッカ巡礼記』1: 238–240.

カーバ神殿は、メッカの外の君主たちだけではなく、メッカに住む有力者たちにとっても重要な政治的儀礼の場所であった。15世紀には、カーバ神殿を半円状に囲む壁(アラビア語でハティーム)のそばで、メッカの支配者であるアミールやメッカの裁判官などに対してマムルーク朝スルターンが送った勅令や布令が読み上げられていた18。またメッカのアミールの就任式では、黒石に手で触れるという儀礼が行われていた19

18 Itḥāf: IV, 129, 191, 233, 417, 429, 567, 569, 577, 579, 589, 590, 592, 637.
19 Al-Taʿrīf: 139; 「『高貴なる用語の解説』訳注(5)」: 11.

このように内外の勢力によって重要視されていたカーバ神殿だが、谷の低いところに位置するため水害には脆弱で、現代に至るまでしばしば洪水による被害を受けている20。例えば1337年12月には激しい雨が降り、聖モスクに洪水が押し寄せ、カーバ神殿にも水が入った。水は、カーバ神殿の周りのタワーフを行う場所のランプのところまで達し、灯っていた火を消したほどだった21。また1434年1月の洪水では、神殿の天井から水が滴り、中にあったキスワが湿り、ランプが水で満たされてしまった22。これらの水害による損傷の修築事業も、政治権力が聖地で威信を誇示するための手段の一つとして利用された23

20 Peters 1994b: 24, 135–140.
21 Itḥāf: III, 212.
22 Itḥāf: IV, 69.
23 Itḥāf: IV, 82–83.

参考文献
一次文献
Riḥlah: Ibn Baṭṭūṭa. Riḥlat Ibn Baṭṭūṭa al-Musammāt Tuḥfat al-Nuẓẓār fī Gharāʾib al-Amṣār wa-ʿAjāʾib al-Asfār. 1997. Rabat: Akādīmīya al-Mamlaka al-Maghribīya. *日本語訳:家島彦一(訳注)1996–2002『大旅行記』平凡社.

The Travels: Ibn Jubayr. Muḥammad b. Aḥmad. The Travels of Ibn Jubayr. 1907. Leiden. *日本語訳:家島彦一(訳注)2016『メッカ巡礼記』平凡社.

Itḥāf: Ibn Fahd. ʿUmar b. Muḥammad. Itḥāf al-Warā bi-Akhbār Umm al-Qurā. 1983–1990. Mecca: Jāmiʿat Umm al-Qurā.

Al-Taʿrīf: Al-ʿUmarī. Al-Taʿrīf bi-al-Muṣṭalaḥ al-Sharīf l’Ibn Faḍl Allāh al-ʿUmarī. (Vol. 2 of A Critical Edition of and Study on Ibn Faḍl Allāh’s Manual of Secretaryship “al-Taʿrīf bi’l-muṣṭalaḥ al-sharīf.”) 1992. Karak: Muʾta University. *日本語訳:谷口淳一(編)2014「『高貴なる用語の解説』訳注(5)」『史窓』71: 1–24.

二次文献
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—. 1985. “Kiswat al-Kaʿba fī al-ʿAṣr al-Mamlūkī,” Majallat Kullīyat al-Ādāb wa-al-ʿUlūm al-Insānīya 5 (1985): 1–22.

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執筆者プロフィール

大津谷 馨(Kaori Otsuya)

リエージュ大学哲学文学研究科博士課程(FNRSフェロー)

京都大学文学研究科で修士課程修了後、同研究科博士課程に進学。ボン大学Annemarie Schimmel Kollegのフェロー、日本学術振興会特別研究員(DC2)を経て、2019年よりリエージュ大学博士課程在学(FNRSフェロー)。

論文に、“Mālikī Imams of the Sacred Mosque and Pilgrims from Takrūr,” Chroniques du manuscrit au Yémen 25 (2018): 53–72.

ひとこと

13~15世紀メッカ・メディナのウラマーの活動について研究しています。人が絶えず流入しムスリム君主たちの思惑が交錯するイスラームの二大聖地において、世界各地から来訪した人々がいかに共存し、社会に統合されていたのか、またいかに支配者や民衆と関わっていたかに興味を持っています。

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