そこにはない空間を現実のように体験させる仮想現実(Virtual Reality, 以後VRと略記)の技術は実用化されて久しく、すでに私たちの日常生活の中に浸透しはじめている。そして、高速通信システム5Gの普及によって、VR技術は日常の様々な場面でいっそう普及していくことが予想される。また、かつては高価であった機材が低価格で手に入るようになり、専門的な知識を必要としたシステムもアプリケーションなどの形で手軽に使えるようになってきている。
このような中、昨年、私たちは、期せずして、空間を三次元的に記録する技術やヴァーチャルに復元する技術への注目が集まる出来事に遭遇した。2019年4月に発生したパリのノートルダム大聖堂の火災は、美術史家のアンドリュー・タロン(2018年没)が遺したノートルダム大聖堂の三次元レーザー計測のデータとパノラマ画像の存在を世に知らしめた。これらのデータは、大聖堂復元の展望が開き、人々に希望を与えることとなった(タロンによる三次元レーザー計測については、National Geographicのウェブサイトに掲載されている”Historian uses lasers to unlock mysteries of Gothic cathedrals“を参照)。また、国内では、2019年10月に首里城の正殿などの主要施設が焼失した際、その翌月には「みんなの首里城デジタル復元プロジェクト」が発足され、話題を呼んだ。このプロジェクトは、異なる位置から撮られた複数の写真や動画のデータから対象物を復元する技術を用いて、首里城をヴァーチャルに再現することを目指している。これには多くのデータが必要となることから、ウェブサイトを通じて首里城を撮影した写真や動画の提供を呼びかけている。これらの出来事は、空間を三次元的に記録することの有用性を如実に示している。
このように、空間の三次元的記録については、様々な分野への応用の可能性が開かれていることが認識され始めている。このような状況を踏まえ、本プロジェクトは、新しい技術を歴史学に応用し、その可能性と課題について検討することを目的に、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所情報資源利用研究センター(IRC)プロジェクトとして、2019年度に立ち上げられた。本プロジェクトは、空間情報の保存と利用の新たな方法としてVR技術に注目し、VRコンテンツの作成を通じて、歴史学研究におけるVR技術利用の意義や課題について検討する。
このような目的意識の下、プロジェクトは、二つの具体的な事柄を追究することとした。
今回、カイロにあるスルターン=カラーウーンの寄進施設を対象として上記の実験を行うことにした。これは、マムルーク朝(1250–1517)のスルターン=カラーウーン(在位1279–90)が寄進によって創建した施設であり、病院・マドラサ(学院)・廟からなる複合体(コンプレックス)である。多数の歴史的建造物の中からカラーウーンの寄進施設を選択したのは、いくつかの理由による。まず、その複合体が病院を含むことがあげられる。この病院は、創建当時、エジプト・シリアにおける医療センターとして先端的な治療と医学教育を提供した。そして、その病院の機能の一部は現在にまで引き継がれており、現在は眼科クリニックとして患者を受け入れているのである。また、その建築様式や装飾は、古代エジプト、ギリシア・ローマ時代の建築要素を受け継ぎつつ、中世のヨーロッパの建築様式との融合も見られ、建築史の観点からも重要な建築である。これらのことから、カラーウーンの寄進施設は、中世イスラーム時代の社会や文化を縦軸・横軸の両方から見るための材料を提供するに違いないと考えた。
本プロジェクトでは、最終的には、VRゴーグルをかけて施設の中を自由に探訪することができるようなツアーを作成することを目指している。また、そのようなコンテンツが教育・研究にどのように資するかについても検討していく。この目標を達成するには、人文学と情報科学を架橋するネットワーク構築も重要である。プロジェクトのメンバーは、中東・イスラーム史の歴史研究者であり、VRに関する特別な知識を持たない研究者である。本プロジェクトは、専門的な知識を持たない人文学系研究者に、どの程度のことができるのか、どこまで発展させられるのかという試みでもあるが、突き詰めていけば、VRの専門家たちの協力を必要とする場面も出てくることが予想される。
さて、本プロジェクトのウェブサイトでは、2019年度の成果として、プロジェクトの概要、カラーウーンの寄進施設に関する基礎情報、パノラマ・ツアーを公開する。寄進施設に関する基礎情報では、創建と修築の歴史、施設内の配置と機能についての概要をまとめた。この内、各施設に関する情報については、特に、プロジェクトメンバーであり、寄進施設を対象に社会経済史的観点から中世イスラーム社会の研究を行う久保が執筆を担当した。パノラマ・ツアーでは、施設の外観・病院・マドラサ・廟を巡ることができる。見どころとなる箇所にはインフォメーション・マークが設置されており、それをクリックすると画像と解説を載せたポップアップが開くようになっている。そこに示される解説は、プロジェクトメンバーの深見 (イスラーム建築史専攻)によるものである。類似の事例、あるいは古い写真や絵画も掲載し、現在の建物を多角的に捉えられるように工夫した。それらの解説を読みながら、ツアーを一通り終えると、イスラーム建築を見る楽しさが生まれることであろう。
新型コロナウイルスCOVID-19の感染拡大で幕開けた2020年度は、海外渡航ができないという事情により、コンテンツを充実させることに注力した。コンテンツを作成する際には、高校生や大学生に読んでもらうことを想定し、大学の授業などで教材として活用できるようなものについて検討した。そこで、VRツアー内の解説にある歴史や建築に関する専門用語を検索することができる用語集をサイト内に設けることとした。これについては、吉村氏が歴史用語を担当し、深見氏が建築用語を担当して、計147語を収録している。次に、VRツアー内の解説で得られる知識をさらに掘り下げて学習することができる「深掘り解説記事」を掲載することにした。歴史・建築・宗教・文化に関する、合計28本の解説記事を、12名の専門家に依頼した。これらの解説記事は、より知識を得たいという読者には読み応えのあるものになっている。他方、教材としては、「楽しく学べる・理解しやすい」という要素も不可欠であると考え、イラストレーターの天川マナル氏に依頼し、専門知識のエッセンスをイラストによりまとめた。専門的な知識を抽象化・単純化するという点においては冒険的な試みではあったが、天川氏の抜群のセンスにより、入門的なコンテンツが出来上がった。このようなコンテンツの追加に加えて、本プロジェクトサイトとVRツアーの英語サイトを設置した。これにより、国外のユーザーをも視野に入れたプロジェクト展開を目指す。
本プロジェクトの取り組みは早くも2年目に突入したが、2019年度に作成したVRツアーについては、未ださまざまな課題が残されている(→撮影方法と課題)。これを踏まえて、今後は、パノラマ・ツアーの課題に取り組むとともに、それをより臨場感のあるVRツアーに発展させていく方法についても検討していきたいと考えている。また、本サイトのコンテンツも順次充実させていく予定である。
2021年春 カラーウーンVRプロジェクト 熊倉 和歌子
2020.2.1 2020年度の成果についての説明を追記しました
*本ウェブコンテンツは、IRCプロジェクト「仮想現実の利用が可能な視覚資料の保存・公開とその利活用のための基礎的研究」(2019〜2020年度)および、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題「中東・イスラームの歴史と歴史空間の可視化分析―デジタル化時代の学知の共有をめざして」(2020〜2023年度)の成果の一部である
*本プロジェクトの遂行にあたり、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フィールドサイエンス研究企画センターから機材の貸与を受けた。
*本プロジェクトのコンテンツ制作にあたっては、同研究所・基幹研究「中東・イスラーム圏における分極化とその政治・社会・文化的背景」の支援を受けた。
*プロジェクト・サイトの翻訳を受けてくださったJeff Gedard氏、VRツアーの英文校閲を受けてくださったGaynor Sekimori氏、深掘り解説の校正作業とデータ整理を補佐してくださった漆光氏に感謝申し上げる。