カイロの街にみられる古代エジプトの建材再利用について

2021年 03月01日

記事ID:0006

タグ:建築歴史文化

執筆者:安岡 義文

カイロの旧市街を歩いていると、中世に建てられた歴史的建造物に、ヒエログリフや図像などが刻まれた古代エジプト由来の石材が再利用されているのを目にすることがある。日本でも、お社の遷宮や、古民家の解体にあたって柱や梁などの大型建材を別の建物に転用することがあるように、廃墟や解体された建物から有用な部材を転用することは、エジプトでもすでに古代から行われてきた。一般に、そのような転用材は、スポリア(spoliaspolium(ラテン語で「略奪品、戦利品」の意)の複数系)と西洋では呼ばれてきた。

近年、私は、カイロでご活躍されている深見奈緒子女史と古代エジプトのスポリアについて話し合う機会に恵まれ、同女史から幾つかの興味深い遺構の存在を教わった。ここでは、その後私なりに各事例を巡察した結果、特に「面白い」と感じた例を厳選して紹介したい。

カイロのスポリアの事例の中には、新たに建造しようとする建物の壁体に、あらかじめ直方体に切られた石材を利用した例もあるが、最も多いのは、古代エジプト建築の真骨頂である一枚岩で贅沢に切り出した柱、梁、敷居などの大型部材を転用した例だ。とりわけよく取り上げられる事例は、バイバルス2世Baybars al-Jāshankīr(在位1309~1310年)のハーンカー(khānqā; イスラーム神秘主義の修道場)の入り口の敷居に使われている転用材だ(図1)。この硬い花崗岩製の部材にはレリーフが施されており、頭を左に傾けてぼんやり眺めてみると王冠を被ったファラオが跪き、何かに対して祈っているようであり、また下段の男女もそれに倣っているようである。1人物像の間には、処狭しとヒエログリフが鏤められており、カルトゥーシュという楕円形の枠に書かれた王名2が注目を惹く。「ネフェル=カー=ラア・セテプ・エン・ラア(Nfr-k3-Rc stp n Rc)」と「ラア=メスィ=スー・ハアイ=エム=ワーセト・メレル・イメン(Rc-msj-sw ḫcj-m-W3s.t mrr ’Imn)」とはラメセス9世(治世: 紀元前1128~1109年)のことであり、同王が寄進した建物の一部であったことが判る。古代エジプトにおいても花崗岩は石灰岩よりも価値が高い岩であり、この再利用材が一枚岩であることから、元来、神殿のような格式高い戸口に用いられていた側柱であった可能性が高い。

1 古代エジプトでは、両手を開いたまま顔の高さにあげるのが祈りのポーズであった。これは少し、イスラーム教徒のアッラーフの御名を呼ぶときの動作に似ている。
2 エジプト王名には5種類あり、そのうち誕生名と即位名は、カルトゥーシュに囲まれて書かれる。

図1 スルターン=バイバルス2世の複合施設の入口外側の床面。正門の敷石の側面には、ヒエログリフが刻まれている。

古代エジプトの柱をそのまま柱として転用している例も多い。カラーウーンの複合施設(図2)、その近隣にある水飲み場(maq‘ad al-amīr Māmā’y al-Sayfī)、そしてマーリダーニー・モスクMasjid Alṭunbughā al-Māridānīなどにヤシ柱が再利用されている事例はよく知られている。3柱身の断面形状が円形であるヤシ柱が主に集められているのは、それが西洋古典古代の柱の様式と並べて違和感がなかったからだと考えられる。4興味深いのは、古代エジプト建築の豪快さを示すアバクス、柱頭、柱身が一枚岩で切り出されている柱をわざわざ節々で切断して、柱身と柱頭を別々に転用していることである。寄せ集められた転用材が異なる高さからなるため、似た形状の柱身を集め、柱頭は、大量に収集できるコリント式と組み合わせ、これに時には柱礎を加えて柱全体の高さを調節している。

3 Y. Yasuoka, Untersuchungen zu den Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosphie der Ägypter, Hützel 2016, 61, Figs. 2.2.
4 これに対して、一枚岩の閉花方パピルス柱は星形の断面形状をしている。

図2

マムルーク朝に建造されたスワイディー・モスクMasjid al-Suwaydīは、礼拝堂の柱の一つに古代エジプトのヒエログリフが刻まれた花崗岩製の梁が再利用されている(図3)。これは、深見女史から教わった稀有な例で、ヒエログリフは上部半分が、もともと長方形断面であった梁を角柱のように成形しなおす過程で削り取られてしまったものの、今度は頭を右に傾けてぼんやり眺めれば、「上下エジプトの王、双国の支配者、ウセル=マアト=ラア・セテプ・エン・ラア、ヘリオポリス5の支配者アトゥム神に愛されし者(njsw.t bj.ty nb t3.wy (Wsr-m3c.t-Rc stp n Rc)| [’Itmw] nb ’Iwn[w] mr[y])」であったと解される。ラメセス2世の花崗岩製梁がヘリオポリスの神殿域で使われていたことは間違いないが、この事例は、現在ヘリオポリスを発掘しているディートリッヒ・ラウエ博士が著したヘリオポリスに関する部材を網羅した書6にも、ラメセス期の碑文を全て網羅した恐るべき書7の中にも収録されていない。深見女史と共同で、エジプト学系の専門誌に報告したいと考えているものの、私の怠慢で未だ投稿できていない。

5 カイロの北東部の地下鉄駅アル=マタリーヤ駅付近に位置する神殿域。古代エジプト語名は、イウヌー(「柱の町」)であり、柱やオベリスクが林立しているのが特徴的な神殿域であったことを示していると考えられる。ギリシア語のヘリオポリス(「太陽の都市」)という呼び名が示している通り、国家神である太陽神ラーおよびヘリオポリス九柱神を本尊としており、ピラミッドや太陽神殿が、王族によって競うように建てられた古王国時代を最盛期としている。中王国時代以後は、アメン神やその他の地域の神々の信仰が盛んになったが、ラー神の他神との習合(アメン=ラー、アトゥム=ラー、ラー=ホルアクティなど)を通して、ヘリオポリスは、強大な力を維持し続けた。 日本で云うところの伊勢神宮のような存在である。
6 D. Raue, Helopolis und das Haus des Re: Eine Prosopographie und ein Toponym im Neuen Reich, Berlin 1999.
7 K. Kitchen, Ramesside Inscriptions, 8 vols, Oxford 1975-1990.

図3

カイロのイスラーム建築にみられるスポリアに関する研究はこれまで、僅かではあるが蓄積が認められる。8歴史家マクリーズィーal-Maqrīzī(1364~1442年)の記述によれば、カイロの建造において、アレキサンドリアやギーザやサッカーラなどから石材を持ってきたという記述があり、学者間では、それが概ね通説とされている。9しかし、これまで私がみてきたスポリアの事例の中で、ヒエログリフで地名が記されているものは、全てヘリオポリスを挙げている。例えば、近年フランス隊により報告された例では、ファーティマ朝に建造された門の床石にセンウセルト1世がヘリオポリスに奉納した内容を記した編年体の一部が発見されている。10あるいは、カイロのエジプト博物館に行くと、カイロ市内から転用材として発見されたアメンヘテプ3世の閉花型パピルス柱(図4;中庭にて展示)やホルエムヘブの同型の柱(1階にて展示)などでもヘリオポリス及びその神々と王との関係が記されている。また、柱の再利用については、ファラオ様式であると断定できる場合のほとんどがヘリオポリスとの関連性が深い様式であるヤシ柱となっている。よって、柱、梁、敷居などに用いられた大型の硬い石のスポリアは、ほぼ全てがヘリオポリスに由来するものと考えるのが妥当だろう。今後、既にファーティマ朝時代のカイロの建造にて、ヘリオポリスの廃墟から石材が大々的に搬出されたものを、マムルーク朝の様々な建造プロジェクトに再々利用されることになった可能性などを吟味する必要があるだろう。

8 V. Meinecke-Berg, “Spolien in der mittelalterlichen Architektur von Kairo”, in: Deutsches Archäologisches Institut (Ed.), Dauer und Wandel, Mainz am Rhein 1985, 131-142; D. Heiden, “Pharaonische Baumaterialien in der mittelalterlichen Stadtbefestigung von Kairo”, in: Mitteilungen des Deutschen Archäologischen Instituts Kairo 58 (2002), 257-275, pls. 30-31; M. Greenhalgh, Marble Past, Monumental Present: Building with Antiquities in the Mediaeval Mediterranean, Leiden/Boston 2009; S. Altekamp, C. Marcks-Jacobs, and P. Seiler (Eds.), Perspektiven der Spolienforschung, vols. I-II, Berlin 2013/2017.
9 G. Daressy, “Les inscriptions hiéroglyphiques trouvées dans le Caire”, in: Annales du Service des Antiquités de l’Egypte 4 (1903), 101-109; D. Arnold, “Hypostyle Halls of the Old and Middle Kingdom?”, in P. Der Manuelian (ed.), Studies in Honor of William Kelly Simpson, I, Boston 1996, 39-54; Greenhalgh, op. cit., 448, 463.
10 L. Postel and I. Régen, “Annales héliopolitaines et fragments de Sésostris Ier réemployés dans la porte de Bâb al-Tawfiq au Caire”, in: Le Bulletin de l’Institut français d’archéologie orientale 105 (2005), 229-293.

図4

しかし、これほどまでに盛んな建材の再利用を不思議に思う人もいるかもしれない。これらの再利用材に共通しているのは、花崗岩などの硬い石、即ち採石場にて新たに掘削すると時間とお金がかかる材料である、ということだ。カイロ近郊で良質な石灰岩を取ることは、古代から今日に至るまで操業されてきた石切り場があることからも、難しいことではなかったことがわかる。一方で、花崗岩や玄武岩などは砂漠地帯の奥地やアスワーンなどの遥か南まで行かなければ採れない種類の石となるとすでにカイロ近郊にある資源の活用が最も経済的に効率の良いものとなる。このようなスポリアによる造営を、現代の楽観主義者はエコロジカルだと評価するだろうし、悲観主義者は遺跡破壊を嘆くだろう。しかし、人間が建てた建築という代物は、その寿命がいかに人間のそれと比して長かったとしても、あるいは保存修復を幾度繰り返しても、いつかはこの世から消滅していくものである。ここ二十年を振り返るだけでも、バーミヤンの仏像やパルミュラ遺跡が破壊され、首里城やノートルダム大聖堂が燃え、熊本城が天災により被害を受けてきた。大切に博物館で保管していた文化財も、動乱に乗じてイラク国立博物館やエジプト博物館などが略奪・破壊の被害を受けた。それらを喜ぶことは決してできないのだが、我々もまた文化財を消費しているのだと、そして再利用こそがこの石材が最も長く建材として活躍できる方法なのだと、私は、かつては壁面であった部材が床石に転用され、今やすっかりすり減ってしまったヒエログリフや図像を見る度に、己の内に込み上げてくる複雑な感情を宥めることにしている。

エジプトのカイロという街は、「世界有数の汚い都市」と揶揄されることも多々あるが、古代から現代までの多様な文化が織りなす長い歴史を内包している不思議な魅力をもった街であり、私は古代エジプトに関する研究調査の合間に建築浴をして、この街にみなぎるエネルギーを吸収している。なお、ここでは古代エジプトの建材のみを紹介したけれど、ギリシア・ローマ支配時代に建てられた西洋古典古代様式やそれを引き継いだ東ローマ帝国支配時代に用いられていた建材、あるいは、海外から取り寄せた主に大理石製の建材が転用されている歴史的建造物も多く、読者の皆様にも歴史の様々な時代に思いを馳せながら中世イスラーム都市を練り歩くことをお勧めしたい。まさに「勝利(者)」を意味するカイロ(カーヒラ)という街にふさわしく、意図せずして伝統建築群が「イスラームは歴史を継承した上で新たな頂点へと立っている」と表現している様子が感じられるだろう。

執筆者プロフィール

安岡 義文(Yoshifumi Yasuoka)

早稲田大学高等研究所・講師 https://researchmap.jp/yoshifumi.yasuoka

1980年生。2014年ドイツ・ハイデルベルク大学で学位を取得後、日本学術振興会特別研究員(SPD)などを経て、2019年より現職。著書にUntersuchungen der Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter (Hützel 2016)など。

ひとこと

地中海文明史の美術研究に纏わる未解決問題を解明していきたいと幅広く興味を持って日々研究に励んでいますが、眼高手低ゆえに、未だ第一歩を踏み出したところで足踏みしている状態です。現在は、古代エジプト美術とギリシア・ローマ美術のデザイン技法の関係性を絵画、彫刻、建築作品の分析を通して見極めること、そして後ウマイヤ朝の建築様式の成立過程において西洋美術がどのような役割を果たしていたのかを解明する研究に従事しています。

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