スルターン・カラーウーンの虚像と実像

2024年 02月08日

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執筆者:中町 信孝

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カラーウーンは、マムルーク朝第8代のスルターン(在位1280−90年)である。この王朝の他の多くのスルターンと同じように、彼も奴隷としてエジプトの地にもたらされたのち、軍人としてのキャリアを積み重ね、ついには君主たるスルターンの地位にたどり着いた。しかし、彼が他のマムルーク朝スルターンと異なるのは、彼の死後、その息子2人がスルターンとなり、さらに孫8人、曾孫2人、玄孫2人までもがスルターンの位に就いたことである。奴隷出身者の間で君主位が継承されるのが常であったマムルーク朝において、5世代、実に100年近くに及ぶ長期間、単一の家系が君主の位を独占したことは、他に例がない。「カラーウーン朝」とも呼びうる一族支配を創始したカラーウーンとは、いったいいかなる人物であったのだろうか。彼の治世における政治・外交面でのさまざまな業績については、ノースラップによる包括的研究がすでにある1。この小論では、カラーウーンの人となりを伝える情報を集め、彼の人物像を理解するよすがとしたい。

1 Linda S. Northrup, From slave to sultan: the career of al-Manṣūr Qalāwūn and the consolidation of Mamluk rule in Egypt and Syria (678-689 A.H./1279-1290 A.D.), Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1998.

マムルーク出身者の常として、カラーウーンの出生地・出生年は正確には分からない。ウィキペディアなどでは彼の生年を1220年頃2 、あるいは1222年3としているが、これはおそらく歴史家マクリーズィー(1442年没)が、1290年のカラーウーン没時の年齢を約70歳と記していることによるとみられる4。しかし、より早い時代の歴史家であるジャザリー(1339年没)は、カラーウーンは約60歳で死んだと記しており5、どちらが正しいとも決めがたい。

2 日本語版ウィキペディア「カラーウーン」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%B3)(2022年3月6日閲覧)、およびその典拠として挙げられている長谷部史彦「カラーウーン」『イスラーム辞典』岩波書店, 2002, p. 285参照。
3 英語版ウィキペディア”al-Mansur Qalawun”(https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Mansur_Qalawun)(2022年3月6日閲覧)、およびその典拠として挙げられているRobert Irwin, The Middle East in the Middle Ages: the early Mamluk sultanate, 1250-1382, Carbondale: Southern Illinois University Press, 1986, p. 64参照。
4 Al-Maqrīzī, Kitāb al-Sulūk fī maʿrifat al-mulūk, Cairo, 1956, 1/755.
5 Al-Jazarī, Tārīkh ḥawādith al-zamān wa-anbāʾ-hi wa-wafayāt al-akābir wa-l-aʿyān min abnāʾ-hi, Sydon and Beirut, 1998, 1/39; Al-Dhahabī, Tārīkh al-Islām wa-wafayāt al-mashāhīr wa-l-aʿlām, Beirut, 1990, 51/383.

歴史家のバイバルス・マンスーリー(1325年没)によれば、カラーウーンは「純粋なるキプチャク」であるブルジュ・オグルという集団の出身であったという6。アラビア語史料でキプチャクと呼ばれる南ロシアの草原地帯は、1236年以降、チンギス・ハンの孫バトゥによって征服され、その地に住む多くのトルコ系遊牧民がモンゴル帝国の支配下に入ったが、一方で同胞と引き離されて奴隷となり、奴隷商人によってエジプトなどに連れて行かれた者も多かった。おそらくはカラーウーンもそのような境遇だったのであろう。

6 Baybars al-Manṣūrī, Zubdat al-fikra fī tārīkh al-hijra, Beirut and Berlin, 1998, 175.

 はじめにカラーウーンは、エジプトのアイユーブ朝に仕えるアラーウッディーン・カラスンクルという軍人によって購入された。1247−48年にこのカラスンクルが亡くなるとアイユーブ朝君主サーリフ・アイユーブ(在位1240−49年)がカラスンクルのマムルーク軍団を自らのものとしたため、カラーウーンもエリート軍団である「バフリーヤ軍団」に編入されることとなった7。これがカラーウーンにとっての出世の糸口となったのである。

7 Abū al-Fidāʾ, Mukhtaṣar fī akhbār al-bashar, Cairo, n.d., 3/177.

ここで再び、カラーウーンの年齢について考えてみたい。彼の秘書官で伝記作者であるシャーフィウ・ブン・アリー(1330年没)は、カラーウーンが奴隷商人とともにエジプトに来たのは14歳の頃であったと記している8。仮に彼が1220年の生まれだとし、1234年頃にエジプトでマムルークとなったと仮定すると、バフリーヤ軍団に編入されるまで13〜14年もの間、奴隷身分に留まっていたことになる。マムルーク朝の政治文化について分析したレヴァノニによれば、マムルーク朝初期においてはマムルークたちの修行期間は総じて長かったというが9、それは少年期にマムルークとなった者についてのことであり、青年期に達する頃マムルークとなったカラーウーンにそれは当てはまらない。また、先述の歴史家バイバルスは、カラーウーンが年長でマムルークとなったため、終生アラビア語を苦手としていたと語るが10、このことも、彼がマムルークとしての修行期間が短かく、十分なアラビア語教育が受けられなかったことを示唆している。したがって、上述のジャザリーの記述に基づき、カラーウーンの誕生を1230年頃、エジプト渡来を1244年頃と考えるのが妥当であろう。

8 Shāfiʿ bn ʿAlī, al-Faḍl al-maʾthūr min sīrat al-sulṭān al-Malik al-Manṣūr, Sidon and Beirut, 1998, 25; Northrup, From slave, p. 66, n. 7.
9 Amalia Levanoni, A turning point in Mamluk history: the third reign of al-Nasir Muhammad Ibn Qalawun (1310-1341), Leiden, New York and Koln: Brill, 1995, pp. 14-19.
10 Ibn Taghrībirdī, al-Manhal al-ṣāfī wa-l-mustawfā baʿda al-wāfī, Cairo, 2002, 9/95.

ところで多くの歴史書は、カラーウーンが千ディーナールという高値で購入され、それが彼のあだ名である「アルフィー」の由来となったことを伝えている(アラビア語で「アルフ」とは「千」を意味する)。兵士となるために売り買いされるマムルークの価値は、身体の壮健さ、乗馬や弓射の腕前、そして顔立ちや体格の美しさで決められたが、カラーウーンがそうした美質を備えていたことも、多くの歴史書が伝えるとおりである。

若き日のカラーウーンについては、彼の子飼いマムルーク出身である歴史家バイバルスが興味深い逸話を伝えている。たとえば、アイユーブ朝が倒れてマムルーク朝の第2代スルターン、アイバク(在位1250−57年)が実権を握った際、エジプトを追われたカラーウーンが仲間のバフリーヤ軍団とともにシリアの各都市を放浪しているときのことである11。この時バフリーヤのリーダーであったバイバルス(のちのスルターン。歴史家のバイバルスとは別人)は、カラーウーンらとともに、とある高名な長老を訪ねてヘブロンの町に向かっていた。しかしその途中、カラーウーンは通りすがりの男に食料を求めたが断られ、腹立ちのあまり殺害してしまう。さて彼らがヘブロンに到着すると、長老はバイバルスを歓迎したが、カラーウーンが挨拶しようと近づくと顔をそむけ、こう言った「これなるは、神が禁じた殺人を犯した者なり」。カラーウーンはおのれの過ちを激しく後悔したという。この頃カラーウーンはおそらく20代の半ば、かっとなりやすいがすぐに反省する男でもあったようだ。

11 以下の逸話は、Baybars, Zubdat al-fikra, 34-35を参照。

この話には続きがある。バフリーヤたちが長老のもとを立ち去るとき、長老はバイバルスに向かってこのような予言を与える。「そなたがエジプトに行けば、王位はそなたのものとなるだろう。善行に励みなさい」。ところが、その次にカラーウーンが再び挨拶をしようと近づくと、長老は彼に対しても全く同じセリフを投げかけた。カラーウーンはこの言葉に大いに驚いたと言うが、それは、当時困窮の極みにあった自分に向けて過大な予言をされたことへの驚きか、それとも先ほど自分を厳しく咎めた人物が最大限の賛辞とも取れる言葉を贈ってくれたことへの戸惑いだっただろうか。そもそもバフリーヤ軍団では新参者に過ぎなかったカラーウーンであるが、この逸話ではすでに彼がバイバルスと肩を並べる存在として描かれている。むろんこの逸話を伝える歴史家バイバルスによる正当化バイアスを差し引く必要はある。

その後、予言の効果もあらたかに1260年、バイバルスがスルターンとなると、カラーウーンにはますます活躍の場が与えられるようになった。同時代史料には、バイバルス時代に行われた対十字軍、対モンゴル軍のさまざまな軍事活動において、遠征軍の筆頭にカラーウーンの名が挙げられることが多い。

カラーウーンの抜きん出た地位の高さは、ただ戦いの場に留まるものではなかった。バイバルスの治世には敵国であるイルハン国から3千人のモンゴル兵が亡命してきたことが知られており、バイバルスは亡命軍団の指揮官ゲレムンの娘を妻に迎えてこれを懐柔した。この時カラーウーンはすでにゲレムンの別の娘を娶っていたため、バイバルスと彼は義理の兄弟の間柄になった12。そして1276年、カラーウーンの娘ガーズィヤ・ハトンと、バイバルスの長男ベルケハーンとの間で婚姻が成立し、カラーウーンは次期スルターンの岳父として、マムルーク政権のナンバーツーとしての地位を揺るぎないものとしたのである13

12 モンゴルからの亡命軍事集団と、マムルーク朝有力者との婚姻については、中町信孝「イル・ハン国からマムルーク朝に流入した亡命軍事集団:渡来の背景と渡来後の経歴を中心に」『史学雑誌』109: 4(2000), p. 23を参照。
13 カラーウーンとバイバルスとの婚姻による結びつきについては、Northrup, From slave, pp. 72-73を参照。

1277年、バイバルスが急死すると、ベルケハーンがスルターンとして後を継いだ。しかし彼は即位後まもなく、亡き父バイバルスの子飼いマムルークたちと対立して一触即発の事態となった。事態を収めたのは、重鎮カラーウーンであった。彼はバイバルス近衛軍の筆頭クワンディクを処罰し、同時にベルケハーンを強制的に退位させた。その後ベルケハーンの弟スラーミシュがわずか11歳でスルターンとなると、カラーウーンはアターベク(父侯)として政務を執り行った。1279年11月、機は熟したとみたカラーウーンは有力アミールたちを集め、スラーミシュを廃位して自らスルターンとして即位することを認めさせた14。彼の王号はマンスール、「神の助けを得て勝利する者」という意味である。

14 バイバルス没後の政治状況については、Northrup, From slave, pp. 75–81を参照。

この政権交代劇に不満を持つ者もいた。バフリーヤ軍団の同僚で、シリア総督の地位にあったスンクル・アシュカルは、カラーウーンの即位を認めず、自らもダマスクスでスルターンを名乗った。しかし、分裂の危機は外部からのさらなる敵の到来によって回避された。マムルーク朝の内乱に乗じたイルハン国が、5万の大軍を派遣してシリア征服に乗り出してきたのである。カラーウーンはすぐさまスンクルと手を結んで、イルハン軍の侵攻に備えた。はじめカラーウーンは慎重にダマスクス近郊で敵を迎え撃とうとしたが、バフリーヤたちの献策を受け入れて、シリア中部の都市ホムスまで打って出ることにした15。積極策が功を奏したか、果たしてマムルーク軍はイルハンの大軍を撃破して危機を逃れたのであった16

15 Ibn al-Dawādārī, Kanz al-durar wa-jāmiʿ al-ghurar, Cairo, 1971, vol. 8, 242.
16 スンクル・アシュカルの反乱、および、ホムスの戦いについては、Reuven Amitai-Preiss, Mongols and Mamluks: The Mamluk-Ilkhanid War, 1260–1281, Cambridge: Cambridge University Press, 1995, pp. 179-201参照。

その後カラーウーンは、国内においては民衆の支持を保つべく雑税の廃止を行い、さまざまな公共施設の建設に取り組んだ。マンスーリーヤ病院の建設もそうした公共政策の一環ととらえ得るだろう。また対外的にはイルハン国と十字軍との二つの敵が存在したが、新たにイルハンとなったテグデルがイスラームを受け入れ、マムルーク朝との友好関係を望んだために、両国間では一時的な和議が成立した。一方十字軍国家に対しては、当初カラーウーンはバイバルス時代に締結された和議を維持したが、機会を見て征服活動に乗り出した。晩年に彼が企図した十字軍国家の追討作戦は彼の死後、息子で後継者のアシュラフ・ハリールの治世に結実し、1291年、200年間に及ぶ十字軍の歴史にピリオドが打たれることになる17

17 カラーウーン在位中の政治状況について、本小論では概略を述べるにとどめる。詳しくはNorthrup, From slave, Chapter V–VIを参照。

内に善政を施し、外の敵を退けたカラーウーンの10年の治世は、マムルーク朝国家の礎を盤石なものにした時代として評価できる。にもかかわらず彼は、しばしば悪漢として語られることがあった。

その代表例は、オスマン朝時代に流行した民間説話『バイバルス物語』である。この説話は名前の通り、スルターン・バイバルスを主人公とする勧善懲悪の冒険譚であるが、この中でカラーウーンは、スンクル・アシュカルと共謀してバイバルスを毒殺する大臣として描かれる18。もちろん、バイバルス毒殺説とそこにおけるカラーウーンの犯人疑惑は史実とは一致せず、単なる後世の創作と見なすほかない。

18 Jamāl al-Ghīṭānī ed., Sīrat al-Ẓāhir Baybars, Cairo, 1926, 5/3028; M.C. Lyons, The Arabian Epic: Heroic and oral story-telling, Cambridge: Cambridge University Press, 1995, vol. 2, p. 117.

カラーウーンに対するこうした風評は、バイバルス没後の急速な政権交代に由来するのだろう。バイバルスとその一族の統治を支持する者にとっては、カラーウーンは紛れもない簒奪者であった。そうしたビジョンは後の庶民たちの心性の中に引き継がれ、英雄バイバルスに対する悪漢カラーウーンのイメージが形成されていったのであろう。

また、冒頭に述べたとおり、カラーウーン家による支配は100年近く続いたが、カラーウーン自身とその息子ナースィル・ムハンマドの第三治世(1310–1341年)を除く、ほとんどの時期においては、スルターンには何の権限もない傀儡君主であり、配下である「カラーウーン家のアミールたち」が君主をしのぐ富と力を握っていた。こうした時代は後代、混乱の時代ととらえられることとなった。カラーウーン家アミールたちに向けられたネガティブな評価が、カラーウーン自身のイメージについても負の影響を及ぼしたとも考えられるだろう19

19 カラーウーンとナースィル・ムハンマド以後のカラーウーン家支配時代については、Jo Van Steenbergen, Order out of chaos: Patronage, conflict and Mamluk socio-political culture, 1341–1382, Leiden and Boston: Brill, 2006を参照。Steenbergenによれば、カラーウーン家支配を終わらせて後期マムルーク朝を開いたスルターン・バルクークは、バイバルスと同じ王号「ザーヒル」を名乗ることで、カラーウーン家との結びつきを断ち切ることを狙ったという(p. 172)。

ところで、2005年にシリアで制作された歴史ドラマ「ザーヒル・バイバルス」20では、カラーウーンはバイバルスに心酔する美形のアミールとして登場するが、バイバルスに代わって暗殺などに手を下す策謀家として描かれている。新たなカラーウーンのイメージは、これから作られていくのかもしれない。

20 Muḥammad ʿAzīziyya監督, al-Ẓāhir Baybars, Syria, 2005.

執筆者プロフィール

中町 信孝((日本語) Nobutaka Nakamachi)
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