岩のドーム

2021年 03月01日

記事ID:0004

タグ:歴史エルサレム岩のドーム

執筆者:臼杵 悠



黄金色のドーム、そして壁面を彩る鮮やかな青色のタイルが印象的な建造物が、岩のドームである。教科書や資料集などで写真を見たことがある人も多いだろう。岩のドームがあるエルサレムは、一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地である。エルサレム旧市街の中には、神殿の丘がある。ここは、アラビア語でハラム・シャリーフと呼ばれる聖域であり、岩のドームはその中央に建っている。

写真1:岩のドーム(2008年3月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)
写真2:岩のドームと旧市街(2008年3月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)

岩のドームの内部には、巨大な岩がある。この岩は、宗教的に非常に重要な意味を持つ。ユダヤ教徒にとって、この巨石は、アブラハムが息子イサクを神に捧げようとした場として知られる1。この逸話は、形を変えてイスラーム教徒も信じるものとなっている2

1 ユダヤ教の聖典に含まれる創世記(旧約聖書)第22章には、この出来事について書かれている。アブラハムの行為を受けて、信仰心を確認した神は使いを遣り、その行為をやめさせた。アブラハムは息子イサクの代わりに牡羊を捧げた。
2 イスラームでは、アブラハム(アラビア語でイブラーヒーム)が捧げようとしたのはイサク(アラビア語でイスハーク)ではなく、長子イシュマエル(アラビア語でイスマーイール)であるとされている(エスポズィト, 2020: 34; 小杉 2002: 山本 2020: 50)。クルアーンの整列者章100節から111節に同様の伝承があるが、名前は明記されていない。

一方、イスラームの聖典クルアーンや預言者ムハンマドの言葉や行いに関する伝承を収録したハディースには、以下のような伝承が残っている3。預言者ムハンマドが夜の旅(アラビア語でイスラー)によってマッカ(メッカ)からエルサレムへ向かい、その後、天に昇った(昇天、アラビア語でミウラージュ)という4。この昇天の場所が、岩のドーム内の巨石であると伝わっているのだ。

3 例えば、クルアーンの夜の旅章。
4 預言者ムハンマドは天使ジブリール(カブリエル)に手を引かれ、あるいは梯子によって、あるいは天馬ブラークにまたがり、昇天した(杉田, 2002: 942)。詳しくは、エスポズィト, 2020: 64; 大川, 2002a; 同, 2002; 佐藤, 2002; 杉田, 2002; 牧野, 2002などを参照。

エルサレムはマッカ、マディーナ(メディナ)に次ぐ第三の聖地である。そのため、イスラーム教徒はエルサレムへ巡礼することを重視している。また、現在ではイスラーム教徒はサウジアラビアのマッカにあるカアバ神殿に向かって礼拝をするが、イスラームの信仰が始まった当初は、エルサレムに向かって礼拝をしていた5

5 礼拝の方向(キブラ)がマッカに変更されたのは、624年のことである(森, 2002; 嶋田, 2002)。

ハラム・シャリーフ内には、アクサー・モスクがあり、岩のドームの南側に位置する。アクサー・モスクも岩のドームと同様、あるいはそれ以上にイスラーム教徒にとって重要である。預言者ムハンマドが夜の旅の際に、カアバ神殿から向かった先が、エルサレムのアクサー・モスクであった6。さらに、いくつかのハディースのなかで、アクサー・モスクはカアバ神殿の次に地上に建てられたと伝えられている7

6 臼杵, 2002a; 大川, 2002a; 杉田, 2002.
7 山本, 2020: 34–35. ハラム・シャリーフを含むエルサレムの聖地の概要については、山本, 2020の第1章が詳しい。

写真3:ハラム・シャリーフと岩のドーム。奥に見えるのがアクサー・モスク(2015年1月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)

さて、岩のドームが完成したのは7世紀末であると言われている。その建設を命じたのは、ウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクであった8。エルサレムの宗教的な重要性を高めることを目的として、巨石の周りに建てたという。そのため、岩のドームは現在こそ人々が礼拝のために集まるモスクとして使われているが、本来の目的は、「聖なる石」を記念する建物であった9

8 エスポズィト, 2020: 15; 立山, 1993: 61.
9 深見, 2003: 64; 同, 2005: 49–50.

岩のドームは、ウマイヤ朝時代の遺構である。基本的には完成当時の姿を残していると言われるが、改修工事が何度か行われている。例えば、特徴的な壁面のタイルは、オスマン朝期に大規模な改修がなされた際に、追加されたものである10

10 杉村, 2002; 立山, 1993: 61; 深見, 2002b; 同, 2005: 48.

写真4:岩のドーム壁面のタイル(2008年3月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)

アクサー・モスクもまた、アブドゥルマリクの指示によって作られ、715年頃に完成したと言われる。しかし、岩のドームと異なり、建設直後の焼失および幾度もの修正によって、現在では、原形がほとんど残っていない11

11 より詳しくは、立山, 199:60–62や深見, 2002aなどを参照。

最後に述べておきたいのが、ハラム・シャリーフの西面にある通称「嘆きの壁」として有名な壁である。多くのユダヤ教徒が壁の前で熱心に祈っている姿が見られ、観光名所のようになっている。ユダヤ教徒にとって、この壁は特別な祈りの場であり、「西壁」と呼んでいる12。一方、イスラム教徒にとっては「ブラーク壁」として知られ、預言者ムハンマドが夜の旅の際に乗った天馬ブラークをつなげた場所として伝えられる。

12 「西壁」は、紀元後70年にローマ軍によって破壊された神殿(第二神殿)の西側城壁の遺構である。西壁または嘆きの壁について詳しくは、立山, 1993: 32-42; 臼杵, 2002c; 山本, 2020: 37-39などを参照。

写真5:嘆きの壁(2008年3月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)

岩のドームはイスラーム教徒にとっての象徴であり、拠り所である。また、ハラム・シャリーフは彼らにとって、ピクニックやおしゃべりを行う「生活空間」でもある13。一方で、たびたび政治的な争いが起きることで頻繁に情勢が揺れる場でもあり、その意味でも目が離せない場所である14

13 現在、ハラム・シャリーフ内は、平日の決まった時間にしか観光客は入ることができないので、訪問の際には注意が必要である。また、岩のドームとアクサー・モスク内には、イスラーム教徒でなければ入ることはできない。
14 エルサレムやハラム・シャリーフをめぐる政治的な問題については、立山, 1993や山本, 2020が詳しい。

写真6:ハラム・シャリーフ内で課外活動をする生徒たち(2008年3月)
©Qalawun VR Project(撮影者:臼杵悠)

参考文献
井筒俊彦訳. 1958.『コーラン(中)』岩波文庫, 岩波書店.

井筒俊彦訳. 1958.『コーラン(下)』岩波文庫, 岩波書店.

臼杵陽. 2002a.「アクサー・モスク 歴史」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 8.

—————. 2002b.「岩のドーム」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 181.

—————. 2002c.「嘆きの壁」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 699–700.

エスポズィト, J.L.編. 2020.『オックスフォード イスラームの辞典』(八尾師誠監訳、菊地達也 ・吉田京子訳)朝倉書店(John L. Esposito, ed. Oxford Dictionary of Islam, Oxford: Oxford University Press, 2003).

大川玲子. 2002a.「イスラー」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 124.

—————. 2002b.「昇天」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 492.

小杉泰. 2002.「イスマーイール」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 122.

佐藤次高. 2002. 「ミーラージュ」日本イスラム協会他編『新イスラム事典』平凡社., 473–474.

島田襄平. 2002.「キブラ」日本イスラム協会他編『新イスラム事典』平凡社., 195.

杉田英明. 2002.「ミウラージュ」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 942.

杉村棟. 2002.「岩のドーム」日本イスラム協会他編『新イスラム事典』平凡社., 130–131.

関根正雄訳. 1956.『旧約聖書 創世記』岩波文庫, 岩波書店.

立山良司. 1993.『エルサレム』新潮選書, 新潮社.

日本ムスリム協会. 1982. 『日亜対訳・注解 聖クルアーン』.

深見奈緒子. 2002a.「アクサー・モスク 建築」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 8.

—————. 2002b.「岩のドーム 建築」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 181–182.

—————. 2003. 『イスラーム建築の見かた――聖なる意匠の歴史』東京堂出版.

—————. 2005.『世界のイスラーム建築』講談社現代新書, 講談社.

牧野信也. 2002.「ミーラージュ」片倉もとこ他編『イスラーム世界事典』明石書店., 360–361.

森伸生. 2002.「キブラ」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店., 307.

山本健介. 2020.『聖地の紛争とエルサレム問題の諸相――イスラエルの占領・併合政策とパレスチナ人』晃洋書房.

執筆者プロフィール

臼杵 悠(一橋大学大学院経済学研究科経済史・地域経済専攻・博士後期課程)

Haruka Usuki

1987年生。2014年4月から2016年3月まで調査研究のためヨルダンに滞在、また2018年4月から2019年9月までエルサレムに滞在。著書に『移民大国ヨルダン:人の移動から中東社会を考える』(風響社、2018年)。その他の業績(https://researchmap.jp/h-usu)

ひとこと

アラブ・中東地域の社会経済状況や人の移動に関心を持っています。特にヨルダンを対象に、国勢調査や世帯調査などの統計資料を使って研究を行っています。ヨルダンはパレスチナを含め、周辺諸国・地域から移民や難民を多く受け入れ、発展してきた国家です。ヨルダン国内に積み重なってきたアラブ諸国の歴史や社会構造を読み解いていきたいと思っています。

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