アヤソフィアの再モスク化決定について
2020年7月、トルコ共和国のエルドアン大統領は、それまで博物館として公開されていたアヤソフィアを再びモスクとして用いるよう命じる大統領令に署名した。この歴史的な変更にはどのような背景があったのだろうか。
まずはアヤソフィアという歴史的建造物の変遷からたどってみたい。 「イスタンブル歴史地区」として世界遺産にもなっているアヤソフィアは、もともと537年にコンスタンティノープルのキリスト教大聖堂として献堂された。キリスト教建築として一般的な縦長のバシリカ式聖堂に、ペンデンティブ構造の大ドームを乗せることに成功したアヤソフィアは、献堂から今日に至るまで帝都コンスタンティノープル/イスタンブルを代表するモニュメントである。1453年にコンスタンティノープルが征服されると、征服者たるオスマン帝国君主のメフメト2世は早速帝都の大聖堂へと乗り込んで、ドームの上にまで上ったことを同時代人のトゥルスン・ベイは伝えている1。その後1460年代から主宮殿として用いられるようになるトプカプ宮殿にもほど近い大聖堂は、君主が金曜礼拝にも訪れる集会モスクへと改装されて、もとのギリシア語名にちなんで「アヤソフィア」と呼びならわされるようになった。後にイスタンブルにはスレイマン1世によるスレイマニイェ・モスクや、ブルーモスクとして知られるスルタン・アフメト・モスクなどがスルタン寄進の大モスクとして建てられたが、アヤソフィアが町一番のモスクとして認識されていたことはほぼ間違いない。
1 Tursun Bey, 1977: 66.
イスラーム世界の都市では一般にモスクや学校のような公共財は、「ワクフ制度」によって維持運営されれていた。ワクフ制度の詳細については他稿の解説に譲るものの、アヤソフィアも「メフメト2世のワクフ文書」によって、寄進されたワクフ財からの収益で維持・運営されるワクフ施設となった。ワクフ設定時に寄進者によって作成されたのが「ワクフ文書」であり、神への祈りと寄進者の名を記した「序文」、ワクフ財の内容やその位置を明示する「ワクフ指定」、ワクフ財の収益使途と運営方法を規定する「ワクフ条件」、ワクフの永続を祈願する「結び」の四部から構成される2。実はあとにのべるように2020年7月の再モスク化決定において、メフメト2世のワクフ文書の規定がその判断の根拠となった。3ひとまずワクフにはワクフ施設とワクフ財があり、その運用規定となるのがワクフ文書であるという基本的な関係を押さえておきたい。
2 林, 1988: 80.
3 https://www.aa.com.tr/tr/ayasofya-camii/ayasofyayi-camiden-muzeye-donusturen-bakanlar-kurulu-kararina-iptal-/1906077
メフメト2世のワクフについては林佳世子の研究が詳しい。これによると1456年頃にまずアヤソフィアがワクフ指定され、この頃建設された市場や隊商宿、浴場に加えてビザンツ時代から残る一部家屋の地代もワクフ財となった。その他には、アヤソフィア以外の教会からモスクやマドラサ、給食所に転用された施設もワクフ施設になり、「メフメト2世のワクフ」の一部になった。また帝都復興を急ぐメフメト2世は、アヤソフィアの整備に加えて、自らの異名ファーティヒ(征服者)を冠したファーティヒ・モスクと付属のマドラサを、歴代ビザンツ皇帝の墓所がおかれた聖使徒教会を破却させた敷地上に新たに建設してメフメト2世の墓廟もおかれた。そのためファーティヒ・モスクもメフメト2世のワクフに追加されて、モスクとマドラサが1473年までに完成すると新たにワクフ文書が編纂された4。
4 林, 1988: 102-104.
メフメト2世の死の翌年1482年にはファーティヒ複合体が完成したため改めてワクフ文書が編纂されて、ファーティヒ複合体から成るワクフと、アヤソフィアなど旧教会施設群から成るワクフへと分離されて運用されるようになった。興味深いことにアヤソフィアに対しては主にイスタンブル市街地の不動産収益を充て、ファーティヒ・モスクに対しては主に農村の租税収入をワクフ財に指定している。
ここでいったんアヤソフィアの問題から離れて、オスマン帝国期からトルコ共和国期までのワクフの変遷を、国家による統制という観点からみておきたい。いささか込み入った内容となるが、前近代から現代に至るまでの国家とワクフの関係を見れば、今回の事件の性質がより明確になると思われるからである。
本来ワクフとは半永久的に維持・運用されるべきものであるが、とくに収益物件となるワクフ財の荒廃や焼失、あるいはインフレなどによりワクフ文書で規定されたような運営が行うことができなくなってしまうケースが多い。一方ワクフ財が失われて収入が確保できなくなることで学校などが運営されなくなることは起こりうる事例ではあるものの、ワクフ施設自体の荒廃はあまり想定されていたことではない。また特に農村の租税についてはこれがワクフ財に指定されてしまうことで国有地のかなりの部分がワクフ地になってしまい、国家財政を圧迫する一因ともなった。そのためメフメト2世自身も、新征服地であるアナトリアにおいては旧存のムスリム名家や神秘主義教団が寄進したワクフ地の多くを国有地に編入している5。
5 永田雄三編, 2002: 237.
もっと難しいのがモスクの礼拝空間としての機能を解除できるのかというシャリーア(イスラーム法)上の問題で、一部の法学者はモスクの周辺が荒廃して礼拝者がいなくなった場合にのみ、モスクを廃止することができるとし、その場合はもとの所有者ないし寄進者に所有権が戻るとしたが、必ずしも合意が得られているわけではない6。教会からモスクに転用されたアヤソフィアは、後述するように近代法を受容した共和国期に入って1934年にモスクから博物館へと再度転用されることになった。これが有効であるか否かという議論が、今回の再モスク化事件の根底にあるわけであり、トルコ共和国におけるシャリーアと近代法の位置づけというきわめて重大な問題も提起しうるのである。
6 柳橋, 2012: 666.
だが実のところ、国家がワクフを把握・監督しようとする動きは、オスマン帝国においても16世紀から顕著になる。たとえばイスタンブルでは1546年と1600年に、市内にあるワクフ施設に寄進されたワクフ財の状況を調査して台帳が作成された。本台帳はとくにイスタンブルにおける不動産のワクフ化の進展を示す貴重な資料である。ところで、個人寄進のものも含む個々のワクフは管財人(mütevellî)と監督職(nâzır)を任命しており、帝室関連のワクフの多くは、大宰相やシェイヒュルイスラーム(マドラサ教育を受けたウラマーたちの最高位)、白人宦官長が監督職を勤めていた。ところが16世紀末になるとメッカ・メディナに対するワクフ財全般を管轄する両聖都ワクフ局(Evkāf-ı Haremeyn Nezâreti)が設立されて、その監督職に黒人宦官長が就いた7。両聖都ワクフ局はすべての帝室ワクフの財務と把握して供出金を徴収するものであり、黒人宦官長は必ずしもすべての帝室ワクフの監督職に就いたわけではないが、アヤソフィア・ワクフは彼の監督職下におかれた。また帝室ワクフ以外の一般ワクフの監督職も、黒人宦官長が獲得した。
7 林, 2009: 79; Öztürk, 1995: 521-522.
さらに時代が下ると、中央政府によるワクフ掌握の動きは一層はっきりしてくる。まず1774年にアブデュルハミト1世が自身の寄進した諸ワクフを管轄する部局を設け、イェニチェリ軍団が廃絶された1826年には帝室ワクフ省(Evkāf-ı Hümâyun Nezâreti)を設立して前述のワクフにそれまでイェニチェリらが要職を占めていたワクフなどを加えて管轄するようになった。続々とその他のワクフを手中に収めるようになった帝室ワクフ省は、1838年に先述の両聖都ワクフ局も吸収し、1834年には一般のワクフも管轄下に置いた。両聖都ワクフ局が管理していたアヤソフィアとそのワクフ財もこの際に帝室ワクフ省の管理下に置かれたものと考えられる。のちには地方にあったワクフ財にもイスタンブルから管理者が送り込まれて、財源全体が中央政府の管轄下に置かれるようになった。本来ワクフ財から集められた収入は、それぞれのワクフ施設に分配されるべきものだが、この時以降、手数料などの名目でかすめ取られてかなりの部分が国庫へと流出するようになった。近代化を進めるため新たな財源を必要とするオスマン政府にとって、莫大なワクフ財は格好の標的とされてしまったのである。その結果アヤソフィアのような大モスクは管理が続けられたものの、従来の収入を得られなくなった多くのワクフ施設が19世紀になって荒廃したとされている8。シャリーアで存続が保証されているはずのワクフ財とワクフ施設の両者が、この時期にはすでにオスマン政府によって蚕食されていたのである。
8 Ibid, pp. 522-523.
ワクフ財を管理する帝室ワクフ省は、アタテュルク率いる新生トルコ共和国の時代に入っても名称が変更されつつも継承された。まずオスマン帝国末期の1920年にはアンカラにおいてシャリーアおよびワクフ省(Şer‘iyye ve Evkāf Vekâleti)が設立されてのちに帝室ワクフ省を引き継いだが9、直後の1924年には総理府内に設置された小部局である宗務局とワクフ総局(Evkaf Müdüriyet-i Umûmiyyesi、のちにVakıflar Genel Müdürlüğü)へと格下げされた10。このように組織的には紆余曲折があったものの、16世紀末に端を発し、19世紀に一気に進行したワクフに対する中央政府の管理は、トルコ共和国でもそのままワクフ総局へと受け継がれた。
9 Akyıldız, 2010: 7-8.
10 新井, 2001: 214.
さて、ふたたびアヤソフィアへと話題を戻そう。
共和国成立後もワクフ総局の管理下にあってモスクとして用いられていたアヤソフィアの運命が一変したのは1934年のことである。ある晩アタテュルクが談笑している最中にアヤソフィアの博物館化の意向を述べたといわれており、早速翌日には国民教育相がアタテュルクにワクフ総局から博物館を管理する博物館総局への移管を伝えたとされる11。11月24日の閣議決定によってアヤソフィアが後者へと移管された結果、翌年2月1日には博物館として公開された。そして2月6日にはアタテュルクが訪問することによって、非宗教的施設としての地保を固めた。アヤソフィアに隣接してあったアヤソフィア・マドラサの建物は1924年以降トルコ共和国でマドラサが廃止されると孤児院として使用されていたが、こちらもやはり博物館総局へと移管されて1935年には破壊された12。
11 Eyice, 1993: 451.
12 Semavi Eyice, “Ayasofya Medresesi” in Dünden Bugüne İstanbul Ansiklopedisi vol. 1, İstanbul, 1993,
p.460.
博物館化の経緯をみる限りでは、共和国設立当初から世俗化するという確たる目標があったようには思われない。ワクフ総局の設置から既に10年が過ぎ、トルコ共和国では数々の世俗化政策がとられていたにもかかわらず、その間アヤソフィアはモスクとして使用されていた。だが1932年からアヤソフィアではアタテュルクと親交のあったアメリカ人考古学者のウィットモアによるモザイク修復がおこなわれていたため、これを好機とみたアタテュルクが一気に博物館化に踏み切ったものと考えられる。オスマン帝国末期のワクフ施設荒廃がワクフ収入の国家による横領という、かなり意図的とはいえ結果として起こった出来事だったのに対して、アヤソフィアの博物館化は積極的なワクフ施設の機能変更、礼拝機能の解除であった。イスタンブル第一のモスクを、世俗施設に転換することで、世俗化政策を可視化しようとしたこの動きは、きわめて政治的な決定であったといえる。同様の動きはおなじくモスクに転用されたギリシア正教会建築として有名なカーリエ博物館が、モザイク修復中の1945年に博物館指定された事例がある13。ちなみにアヤソフィアとならぶイスタンブルの観光名所であるトプカプ宮殿は、1924年4月に博物館指定され、1927年に部分公開、1934年に完全公開されている14。
13 https://web.archive.org/web/20150312082031/http://kariye.muze.gov.tr/tr/muze/tarihce/tarihce_15.html
14 https://islamansiklopedisi.org.tr/topkapi-sarayi-muzesi
1938年のアタテュルクの死後、トルコ共和国は徐々に世俗主義に修正を加え、2002年にレジェプ・タイイプ・エルドアン率いる公正発展党(AKP)が与党となると、学校を含む公的施設でのスカーフ着用を認めるなど一層親イスラーム的な姿勢を明らかにした。公正発展党は宗教保守層を支持基盤とし、エルドアン大統領自身もイマーム養成学校出身の敬虔なイスラーム教徒である。そのため偉大なオスマン帝国とイスラームによる征服のシンボルとも言えるアヤソフィアを再モスク化することは、彼らの悲願であったともいえる。
アヤソフィアの再モスク化運動は2005年からはじまったが、この時の「継続的ワクフ歴史遺産および環境奉仕協会(Sürekli Vakıflar Tarihi Eserlere ve Çevreye Hizmet Derneği)」の訴えは行政裁判所によって却下された。2016年にも同様の訴えがおこなわれたがこれも2018年に却下された15。だがこの時既に1934年の閣議決定の無効化を求めていた点で、2020年のモスク化と方向性を一にしている。
このような行政裁判所への訴訟と平行して行われていたのが、アヤソフィアの再宗教化への地固めである。公正発展党の政権掌握からはるかにさかのぼる1980年8月8日にはかつてスルタンの礼拝所だったヒュンキャル・マフフィリにおいて礼拝が行われ、修復作業完了後の1991年には礼拝が再開されていた。2016年にはミナレットからアザーンも朗誦されるようになっていた16。
16 https://www.aa.com.tr/tr/kultur-sanat/ayasofyanin-4-minaresinden-5-vakit-ezan-sesi-yukseliyor/668646
2020年新型コロナウイルスの世界的流行にともなって、トルコでも感染拡大防止のために3月16日にモスクの一時閉鎖が命じられた。モスクでの金曜礼拝が許可された5月29日は奇しくもイスタンブル征服の記念日にあたっており、一部のグループはアヤソフィアのモスク化を求めるデモ行進を行おうとしたがこれは許可されなかった17。しかし同日のアヤソフィアでは征服567周年を祝う祝典が開催されており、ここでクルアーンの「勝利の章」が詠み上げられたことはギリシアなどから一層の反発をよぶ原因となった18。
17 https://www.cumhuriyet.com.tr/haber/ayasoyfa-acilsin-talepli-yuruyuse-yurttastan-tepki-1741934
18 https://www.hurriyet.com.tr/yazarlar/abdulkadir-selvi/ayasofyanin-ibadete-acilmasi-gundemde-41534281
最終的には件の「継続的ワクフ歴史遺産および環境奉仕協会」による訴えが2020年7月10日に行政裁判所によって認められて1934年の閣議決定が無効とされ、同日大統領令に署名されて7月24日に再びモスクとして使用されることが決定した。24日の金曜礼拝にはエルドアン大統領をはじめとする政府関係者が多数参加したことも広く報じられた。コロナ禍で問題が山積するなか、有権者の宗教心に訴えて支持を得ようとする姿勢がここには垣間見える。
この再モスク化に対してはユネスコも直ちに反発を示した。世界遺産のひとつであるアヤソフィアはモスクになることで世界遺産登録の前提となる「普遍的価値」に影響する可能性を言及した19。これに対してトルコ政府側は「アヤソフィアの文化的価値の保護に全面的に協力し」「信仰を問わず、訪問を制限しない」として、礼拝時にキリスト教の図像は布で覆うがそれ以外の時には見学者を受け入れて覆いも外すとしたが、20両者の歩み寄りは難しいかもしれない。
19 「アヤソフィア、モスクに トルコ、イスラム色強める」『朝日新聞』、2020年7月12日、朝刊、p. 5.
20 「試されるユネスコの危機管理 世界遺産アヤソフィアのモスク化」『朝日新聞』、2020年8月30日、朝刊、p. 27.
行政裁判所による閣議決定無効の根拠となったのが、「メフメト2世のワクフ文書」だったことは先に述べた。いくつか存在するワクフ文書のうち、ワクフ総局が所蔵する16世紀中期以降にアラビア語からオスマン語に翻訳された文書では、アヤソフィアについて「寄進の地のひとつは、コンスタンティニーイェ(イスタンブル)のなかにある、スルタンの宮殿地区にあるアヤソフィアとして知られる教会であって、かの民衆の先導者が征服の時にまず礼拝をおこなった至高なる場所である」としている21。すなわちワクフ文書の規定を絶対不可侵なものであるとみなす判決であり、アヤソフィアをワクフ施設としたワクフの寄進者メフメト2世の遺志を損ねてはならないとしたのである。
21 林, 1988: 87; Vakıflar Umum Müdürlüğü, 1938: 201.
今回のアヤソフィア再モスク化の決定は、決して唐突に起こった出来事ではない。今日までのアヤソフィアとそのワクフ、そして国家の関係性は紆余曲折を経てきており、その延長線上に今回の判決があった。だが「メフメト2世のワクフ文書」をアタテュルク時代の閣議決定を無効とする判決の根拠としたことはかなり危ういのではないか。公正発展党がひとつの理想と考えるオスマン朝期においても、ワクフのステータスは絶対的なものではなく、時の政府によって容易に介入を受け、場合によってはワクフ財のみならずワクフ施設そのものが消滅した。メフメト2世その人ですら、旧支配者層が寄進したワクフ財を没収していたわけであり、ワクフは常に揺れ動くものだった。今回の判決と決定はアタテュルクの博物館化の命令同様に、きわめて政治的なものであり、ワクフ制度の継続性やその現代における法的拘束力を十分に検討したわけではないようである。
ちなみにアヤソフィアに続いて、先述のカーリエ博物館も2020年8月の大統領令により再モスク化がおこなわれた。これ以外にもトラブゾンのアヤソフィア(2013年)や、イズニクのアヤソフィア(2012年)など、近年まで博物館として公開されていたかつての教会建築が矢継ぎ早に、モスク化されていることには注意を要する。
参考文献
Ali Akyıldız, “Şer‘iyye ve Evkāf Vekâleti” in TDV İslâm Ansiklopedisi vol. 38. İstanbul: Türkiye Diyanet Vakfı, 2010: 7-8.
Semavi Eyice, “Ayasofya” in Dünden Bugüne İstanbul Ansiklopedisi vol. 1. İstanbul, 1993: 446-457.
Nazif Öztürk, “Evkāf-ı Hümâyun Nezâreti” in TDV İslâm Ansiklopedisi vol. 11. İstanbul: Türkiye Diyanet Vakfı, 1995: 521-524.
Tursun Bey(Mertol Tulum ed.). Târîh-i Ebü’l-Feth. İstanbul: Baha Matbaası, 1977.
Vakıflar Umum Müdürlüğü, Fatih Mehmet II Vakfiyesi. Ankara: Vakıflar Umum Müdürlüğü, 1938.
新井政美『トルコ近現代史』みすず書房, 2001.
永田雄三編『西アジア史II イラン・トルコ』山川出版社, 2002.
林佳世子「「メフメト2世のワクフ文書」群の成立」『日本中東学会年報』3-2, 1988.
林佳世子「アヤソフィア・ワクフの一年―1667年付け収支簿台帳からみるオスマン帝室ワクフの運営」『明大アジア史論集』13 (2009): 77-97.
柳橋博之『イスラーム財産法』東京大学出版会, 2012.