設立文書としての寄進文書

2021年 05月25日

執筆者:久保 亮輔


カラーウーンの寄進施設のうち、20世紀になって新設された病棟を除く部分は、今となっては遺構を遺すのみであるが、建設当時の財政機構やどの程度の人員がその運営に関与していたかなどの情報は、ある程度は復元することが可能である。では、そのような具体的な情報はどのようにして得られるのだろうか。

その鍵を握るのが、本解説のテーマである寄進文書(アラビア語でワクフィーヤという)である。土地や物件などの不動産を寄進する際には法廷での手続きが必要で、寄進した不動産の運用方針を明確に定めておく必要があった。収益の使い道やだれが運用の権限を握るかなど、多分に権益が絡む問題なので、事前に権利関係を明文化しておくことがその目的だったと考えられる。

本解説では、カラーウーンの寄進施設が設立されるさいに作成された寄進文書の内容を紹介しながら、歴史学研究におけるその重要性を論じる。まずは、一般的な寄進文書の形式とその特徴を、カラーウーンの寄進施設が建設されたマムルーク朝(1250-1517年)を中心に、周辺イスラーム諸王朝との比較も交えながら確認しておくこととしよう。

1.寄進文書の形式とその特徴

寄進文書の一般的な形式については、すでに正鵠を射た解説文があるので詳細はそちらを参照いただくとして1、ここでは寄進文書が以下の5つの要素から構成されることを指摘しておけば充分であろう。
1.序(神への讃辞、寄進者、寄進の目的など)
2.寄進対象(施設であれば四囲の情報)
3.寄進物件(四囲の情報)
4.諸規定(寄進の条件、寄進物件の運用方法、禁止事項)
5.結(寄進の法的正当性、日付、認証、裁判官と証人の署名)

1 寄進文書の作成方法がある程度定式化されていたとはいえ、じっさいの文書の作成過程では書き手の「文才」に委ねられるところが大きかったとされる。岩武, 2000: 25.

以下では、いくつかの事例を示しながら、一口に寄進文書といってもその内容や作成方法には時代や地域に応じてある程度の差異が見られたことを示しておきたい。

マムルーク朝の寄進文書は、その書き方がかなりの程度定式化されていたことがわかっている。その根拠として、同時代の法学者が寄進文書の書式集を著していることがあげられる2。当然ながら文書は手作業で作成され、その作成には相当の時間と労力を費やさなければならなかったため、様式の定式化は作業の簡略化を意図したものだと考えて良いだろう。この事実は、マムルーク朝でいかに寄進がひろくおこなわれていたかを物語っている。

2 Jawāhir. なお、この書式集の内容とじっさいの文書を照合しながら寄進文書の史料的価値を検討した基礎的研究として、五十嵐, 2010がある。

オスマン朝(1299–1922年)における寄進文書の作成過程では、独特な形態が見られた。その形態とは、以下のようなものである。まず、通常どおり寄進文書が作成され、法廷で承認を得る手続きがとられるが、そのさいにいったん寄進の撤回(所有権の回復3)を請求する訴訟が起こされる。だが、この訴訟はあくまで形式的なものに過ぎず、じっさいにその撤回請求が認められることはない。法官(カーディー)は、寄進がおこなわれた時点ですでに所有権は停止しており、寄進の撤回(所有権の回復)は認められないとする判決を下し、この訴訟は完結する。このような煩雑な手続きは、この寄進物件をめぐる係争が生じたさいに備えてあらかじめ法廷のお墨つきを得ておくための方便であり、いわば「法的フィクション」であった4。所有権をめぐる法廷の判断を文書の形で示しておくことで、寄進者は確実に自らの指定した条件に沿って寄進物件が運用されることを期待したのである5

3 寄進が所有権の「停止」を意味する点については、深掘り解説「ワクフの宗教的・社会経済的意義」を参照のこと。
4 オスマン朝で公式に採用されたハナフィー派法学では、寄進された物件の所有権の所在についての論争があり、寄進者が望む場合には寄進物件の所有権を回復することができるとする説(アブー・ハニーファ)と、いったん寄進に供された時点でその所有権の回復はできないとする説(シャイバーニー、アブー・ユースフ)に意見が割れていた。そこで、寄進物件の所有権をめぐる論争を回避するための方法として、この手続きがとられた。Peters, 2002: 62.
5 たとえば同様の事例は、19世紀ダマスクスの賃貸借契約においても見られる。三浦1999: 133.

ペルシア語圏については、寄進文書が国家権力により統一的な方法で管理されるのではなく、権利関係者が所有している場合が多いという話をイラン研究者から聞く。このことは、不動産の管理・運用への国家権力の関与の度合いが相対的に小さかったことを示しており6、ワクフをめぐる係争が生じたさいに備えて寄進文書が寄進者あるいは受益者の親族の間で代々受け継がれてきたと考えられる。現在もワクフが「生きている」という点も特徴としてあげられる7

6 岩武, 1993: 12-14; 近藤, 2001: 225.
7 岩武, 2000: 31; 近藤, 2007: 9-10.

このように、一口にイスラーム諸王朝といってもその範囲は広大なので、寄進文書の形式にもかなりの差異が見られたことがわかる。裏を返せば、その差異は時代や地域の特性を示すものでもあるため、寄進文書は単に寄進の内容を知るための文書であるばかりでなく、その文書が作成された王朝や社会に固有の価値体系や歴史的文脈を明らかにするための史料ともなりうるのである。以上の点を念頭に置きながら、以下ではカラーウーンの寄進文書の内容をみてゆくこととしよう。

2.カラーウーンの寄進施設の寄進文書

(1) 現存する寄進文書
カラーウーンの寄進施設にかかわる寄進文書は、現在のところ4通の存在が確認されている。そのうちすでに校訂・公刊されているのが、エジプト国立文書館に所蔵される整理番号2/15の文書と、その複写でエジプト・ワクフ省に所蔵される整理番号1010qの文書である。エジプト人歴史研究者ムハンマド・アミーンは、この2通を校合し、イブン・ハビーブの年代記『カラーウーンの御代にかんする輝かしき覚書』の付録として公刊した8。この他、ワクフ省には、整理番号706jと整理番号1011qの2通の寄進文書が所蔵されている9

8 Tadhkira, 1: 329-376, 385-396; Amīn, 1981, 6, 75.
9 Tadhkira, 295-97; Amīn, 1981, 75, 76. なお、アミーンは整理番号1012の文書にも(脚註で)言及しているが、その所在や内容については説明していない。

(2) 寄進文書には何が記されているのか
以下では、寄進文書に記された情報の一部を紹介しながら、寄進施設の運営にかんする情報を得るために寄進文書がどのように役立ち得るかを考えてみよう。

カラーウーンの寄進施設の寄進文書には、以下の内容が記されている。まず冒頭では、神と預言者に言及しつつ、この寄進が喜捨の精神にもとづく慈善事業であることが述べられる。ここでは、ハディースからの引用として、「人が死んだとき彼の行為は(次の)三つの事柄を除いてそこで中断される。それらは繰り返し行われるサダカ10と役に立つ知識と彼のために祈りを捧げる品行方正な子供である11」と述べられ、カラーウーンの寄進施設が永久にムスリムの厚生(マスラハ)に資するものであることを印象づける役割を担っている。つづいて、寄進財としてカイサリーヤ(商品の保管庫と事務所、宿舎からなる商業施設)が3件と、ハンマーム(公共浴場)、果樹園が、その四囲の状況と共に述べられる12。これらの不動産の運用方法については、寄進文書において3年以下の期間をさだめて適正価格あるいはそれ以上の価格で賃貸にだすことで収益を確保することが求められている。その後、寄進施設の機構にかんする説明がつづく。カラーウーンの寄進施設の寄進文書では、その大部分が病院の機構の説明に充てられている点が特徴である(詳細は後述する)。さいごに禁止事項が述べられ(ここでは、寄進事項の取り消しや権力者による介入が禁じられる)、文書は法官と証人(シャーヒド)の署名で結ばれる。これら一連の内容が法廷で審査されてはじめて、この寄進事業が承認されたことになるのである。

10 義務としての喜捨がザカートと呼ばれ、一種の「救貧税」としての役割を果たしたのにたいして、任意で実施する喜捨はサダカと呼ばれる。中世イスラーム史においては、個人の自発的な喜捨の発露としてのサダカが、政治権力により徴収・配分されたザカートを量的に圧倒したと言われている。長谷部, 2004: 45-47.
11 イマーム・ムスリム・ビン・アル・ハッジャージ2001, 2: 672(http://www.muslim.or.jp/hadith/smuslim-top-s.html)
12 のちにカラーウーンの子息や孫、この寄進施設に勤務した医師などによって財源は追加されることとなる。詳細は本プロジェクトホームページの「寄進施設の創建と修築の歴史」を参照のこと。

以上の内容は、他の寄進文書においてもみられる一般的なものであるが、カラーウーンの寄進文書の特徴は、病院の医療体制や患者への処置の仕方が克明に記されている点である。たとえば、文書には内科医、眼科医、外科医についての記述があり、さらには精神疾患患者への言及も見られる。ここから、当時の医学がかなり専門化していたことが読み取れるであろう13

13 寄進施設の管財業務に携わったヌワイリーは、これらにくわえて整形外科医を含む4種の専門別の医師が病院に勤務していたと記している。Nihāya, 31: 107.

患者の診療・療養の方法についても、かなり具体的な情報を得ることができる。患者のための設備としては、鉄製あるいは木製の病床、木棉製のマットレスとブランケットと掛け布団、亜麻布製あるいは皮製の枕が用意される。そのさい、その種類や仕入れ価格、既製品を購入するかあるいは特注かなどの諸事項は、管財人が彼の判断にもとづき決定することが文書の規定により求められている14。薬剤についても様ざまな種類をあげながら説明がなされ、それらに必要とされる砂糖や果汁、小麦粉などの購入にかかる諸経費は管財人が支給する権限を有することが説明される。また、購入した薬剤を調合するスタッフ、管理するスタッフ、処方するスタッフがそれぞれ置かれることも述べられる15。そして、これら専門のスタッフがじっさいに調合した薬剤や食事を病状者に提供するさいには、陶器製のお椀、ガラス製か土製の器、水差しが用いられること、飲食にはナイルの水が使われること、食事を配膳するさいにはヤシの葉でお椀を覆うことなどが述べられ、これに付随して燭台、燃料用のオリーブ油への言及も確認できる16。これらにかかる諸費用を支出する権限はやはり管財人が有することが述べられる。薬剤は、朝晩の2回に分けて処方することとされた17

13 寄進施設の管財業務に携わったヌワイリーは、これらにくわえて整形外科医を含む4種の専門別の医師が病院に勤務していたと記している。Nihāya, 31: 107.
14 Tadhkira, 1: 363
15 Tadhkira, 1: 363-365.
16 Tadhkira, 1: 364.
17 Tadhkira, 1: 365.

このように、管財人は設備、薬剤、物品などの購入、支給に権限を有していたため、それなりの才覚が求められた。管財人のミスマネージメントは、寄進物件の荒廃や運営の非効率化をまねく恐れがあり、永続性を旨とするワクフの原義に反することになるからである。こうした点を考慮してか、管財人は、管理能力に長けており、信仰と知識と経験において信頼できるムスリムでなければならないと記されている18

18 Tadhkira, 1: 363.

4世紀マムルーク朝期の陶器製のお椀(大英博物館所蔵)
© The Trustees of the British Museum
(画像)https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1908-0722-1
14世紀マムルーク朝期の真鍮製のお椀(大英博物館所蔵)
© The Trustees of the British Museum
(画像)https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1960-0731-2
14-15世紀マムルーク朝期の陶器製の水差し(大英博物館所蔵)
© The Trustees of the British Museum
URL: https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1921-0301-58
14-15世紀マムルーク朝期の燭台(大英図書館所蔵)
© The Trustees of the British Museum
URL: https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1953-1021-2
マムルーク朝期の燭台(大英図書館所蔵)
© The Trustees of the British Museum
URL: https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1954-1016-1

ここまで、寄進文書の内容から施設運営の具体像を復元することに努めてきたが、残念なことに、文書からカラーウーンの寄進施設の収支にかんする情報は得られない。薬剤や物品の購入にかかる費用は「適正価格を支出すること」とのみ説明され、あとは管財人に委ねられたのである。他の多くの寄進文書でも収支にかんする情報は記されないことが多いが、たとえばカラーウーンの孫のスルターン・ハサン(在位1347-51年、1354-61年)の寄進文書では、支出項目がじつに細かく分けられ、寄進財から得られた収益をどのように使うべきかを仔細に記している19。ただ、そのような例はごく稀で、寄進文書から得られない情報は、同時代に著された年代記や地誌などのいわゆる叙述史料を用いてその内容を補うのが歴史研究の一般的な方法である。

19 詳細は、寄進文書の内容をもとにその支出項目をまとめた以下の論考を参照のこと。長谷部, 2004: 60-61(表1).

以上、寄進文書がどのようなものでそこに何が記されているのかを、実例を交えながらごく簡単にみてきた。寄進文書の史料としての限界は、その内容があくまで設立時に寄進者が望んだ運営指針を示しているに過ぎないという点である。本解説の表題は、そのような意味を込めてつけたものである。

とはいえ、同時代あるいはもう少し時代を下ったころに記された史料の多くは、カラーウーンの寄進施設がムスリムの生活を支えていたことを伝えている。先に説明したハディースからの引用、すなわち「繰り返し行われるサダカ」と「役に立つ知識」と「彼のために祈りを捧げる品行方正な子供」に照らしても、この施設がカラーウーンの遺志を体現するモニュメントとして特筆すべきものであったということができるだろう。

参考文献

一次文献

Jawāhir: al-Asyūṭī, Shams al-Dīn Muḥammad b. Aḥmad. 1955. Jawāhir al-‘uqūd wa mu‘īn al-quḍāt wa-al-muwaqqi‘īn wa-al-shuhūd. 2 Vols. Cairo: Maṭba‘at al-Sunnat al-Muḥammadīya.

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Tadhkira: Ibn aḤbīb, Badr al-Dīn al-Ḥasan b. ‘Umar al-Ḥalabī. 1976-82. Tadhkirat al-nabīh fī ayyām al-Manṣūr wa banī-hi. 3 Vols. Cairo: al-Hay’a al-Miṣrīya al-‘Āmma.

二次文献

Amīn, Muḥammad Muḥammad. 1981. Fihrist wathā’iq al-Qāhirah ḥattá nihāyat ‘aṣr salāṭīn al-mamālīk (239-922 H/ 853-1516 M). Cairo: Institut français d’archéologie orientale du Caire.

Peters, Rudolph. 2002. “WAḲF.” The Encyclopaedia of Islam. 2nd. ed. Leiden: E. J. Brill, 1960-2008, 11: 59-99.

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執筆者プロフィール

久保 亮輔(kubo ryosuke)

一橋大学大学院経済学研究科博士課程/日本学術振興会特別研究員

1990年生。2017年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。主要論文:「マムルーク朝における医師の財産と寄進:15世紀カイロのワクフ事例に着目して」(『歴史と経済』第242号、2019年)。

ひとこと

社会経済史学の観点からイスラム史にみられた寄進制度を研究しています。この寄進制度が、社会や経済の有機的な繋がりを支える重要なメカニズムとして機能していた前近代イスラム諸王朝は、現在の我われを取り巻く経済社会とは異なる原理・原則のもとに成り立っていたと言えます。そのような問題意識に立ち、現在、博士論文を執筆しています。

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