ビザンティン帝国のガラス・モザイクとイスラーム建築

2022年 02月04日

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タグ:建築ガラスモザイク

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建築におけるモザイクとは、テッセラとよばれる石やガラスなどの小片をモルタルに埋め込み、図像を描く技法である。これは壁面に描く壁面モザイクと床面に描く舗床モザイクとに大別されるが、どちらも基本的な技法は同じであり、写真のように荒さの異なるモルタルを三層程度重ねて下地層とし、最上層のモルタルが乾ききる前にテッセラを埋め込むものである。このようなモザイクは、古くはシュメールの時代から現代まで続く長い歴史を持つ装飾技法であった1

1 佐々木, 1989: 1122.

モザイクの断面の写真(左)とモザイク下のモルタル各層の構成(右)
(トリーア博物館所蔵; 筆者撮影)

人に踏まれる舗床モザイクとは異なり、壁面モザイクでは素材の強度が強く求められるものではない。そこで使用されるようになったのが、ガラス・テッセラであった。これは石のテッセラよりも強度では劣るものであるが、ガラスを融解させる際に金属化合物等の着色剤を混ぜることによって様々な色をつくることが可能な上、石テッセラでは不可能な金色や銀色も金箔や銀箔をガラスで挟み込むことで作成可能であった。さらに壁面モザイクの場合、その表面を均等で平滑にする必要もないため、金や銀のテッセラを不均一な角度で埋め込むこともできた。こうしたモザイクは時に光を反射し、時にさまざまな陰影をかたちづくることで、フレスコ等では実現不可能な独特な視覚的効果を鑑賞者へ与えることが可能だったのである。こうしたガラス・モザイクの特性がキリスト教美術において好まれたこともあり、キリスト教が公式に認められた4世紀以降においては金テッセラを背景としたキリスト教図像のガラス・モザイクが壁面に施されるのが一般的となっていった2。ビザンティン帝国の首都だったコンスタンティノープル(現トルコ領イスタンブール)のハギア・ソフィアを筆頭に、ビザンティン帝国では多くのガラス・モザイクの傑作が作成され、多くは失われてしまったものの、そのうちのいくつかは現在にまで残されている。

2 ローマ時代のテッセラはアラビアゴムによってガラスと金箔ないし銀箔を接着させて金や銀のテッセラを生成するものであったが、ちょうどキリスト教美術においてガラス・モザイクが一般的となる4世紀頃からガラスで金箔や銀箔の両面を挟みこむ技法が一般的となった。佐々木他, 2015: 229–30.

イスタンブール、ハギア・ソフィアのキリストのモザイク像(筆者撮影)

このようにビザンティン帝国では高度なガラス・モザイクの文化が発展したが、8世紀から9世紀にかけてのイコノクラスムのあおりを受けて、それ以前の時代のモザイク画はコンスタンティノープルに残らなかった。しかし、北イタリアのラヴェンナには、サン・ヴィターレ教会堂など、6世紀のユスティニアヌス帝(在位527–565年)期のモザイクが現存しており、この時代の傑作と呼ぶべきモザイク画を現在の我々に伝えてくれる。そして、こうしたビザンティン帝国のモザイク技術は、実は帝国内に留まらずに帝国外の地域でも珍重されたのである。

ラヴェンナ、サン・ヴィターレのモザイク
CC BY-SA 4.0(撮影:Roger Culos)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44352375

7世紀始めにアラビア半島で興ったイスラーム教は、瞬く間にその勢力を拡大したが、当時のイスラーム教はまだ自分たちの確固とした美術・建築の様式を有していなかった。そこでイスラーム教徒が参照したのが、かれらが支配した地域に先行する二つの文明圏、すなわちペルシアとビザンティンの文化である。ガラス・モザイクはこうした初期のイスラーム教徒が先行するビザンティン帝国から受け継いだ装飾的要素の一つであり、特に初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝の建築においてみられる。その最古の事例は、エルサレム(現イスラエル)にある岩のドームであり、第5代カリフ(イスラーム共同体の最高指導者を指すアラビア語の用語)、アブド・アルマリク(在位685–705年)によって7世紀末に建てられたものである。その外壁のモザイクは16世紀にタイルへと取り替えられたが3、その内部の壁面に残されたモザイクは、ビザンティン帝国の様式を踏襲したものである。しかしビザンティン帝国のモザイクで最も重要な題材である聖書の場面やキリスト、聖母、聖人といった人物像などはもちろん、動物像なども描かれていない。かわりに描かれたのは、イスラーム教の聖典であるクルアーンの章句を引用するアラビア文字の銘文と花瓶や蔓草、果物、杯、王冠などであった。クルアーンの章句を除けば、これらはいずれもビザンティン帝国やサーサーン朝美術に頻出するものである4。岩のドームでは、こうした先行する二つの美術にみられたモチーフを取捨選択し、巧みに再構成することによって、イスラーム建築にあるべき装飾を創出しているのである。

3 ブルーム・ブレア, 2001: 28.
4 杉村, 1999: 43.

エルサレム、岩のドームのモザイク
CC BY-SA 4.0(撮影:Virtutepetens)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=65831071

岩のドームと同様に、ウマイヤ朝期のモザイクが施された建造物の事例として、その首都ダマスクス(現シリア)に創建された大モスクが挙げられる。ウマイヤ・モスクとも呼ばれるこのモスクは、アブド・アルマリクの息子でウマイヤ朝の第6代カリフであるワリード1世(在位705–715年)によって創建されたものであると同時に、創建当初の姿を最もよく残す最古のイスラーム建築の一つである。ワリード1世のもとでウマイヤ朝はその領土を最大化し、西は北アフリカからイベリア半島までを治め、東は中央アジアにまで達していた。ダマスクスの大モスクはこのような大国ウマイヤ朝の栄華を象徴する建築物としてワリード1世紀によって706年に建造された。ワリード1世がその建設に投じた費用は並大抵のものではなかったらしく、10世紀の地理学者ムカッダスィーによれば、その総額は当時のシリア地方の税収7年分にも及んだとされ、ワリード1世の要請に応じたビザンティン皇帝はモザイク師の他にモザイク・テッセラそのものも送ったという5。この大モスクには、1893年の火災によってその一部が焼失してしまったとはいえ、今でも中庭に面した外壁や宝物庫には壁モザイクが残されており、8世紀のビザンティン帝国のガラス・モザイクの技術の高さを確認することができる。モザイク画に描かれたのは、傍に樹木が植えられた建物の下を川が流れる幻想的な風景であり、ここでもやはり岩のドームと同様に人物像や動物像は排除されている。このモザイク画のモチーフとなったのは、クルアーンに描写された死後の楽園の美しい風景ではないかといわれている6

5 Hillenbrand, 1994: 73.
6 ブルーム・ブレア, 2001: 35.

ダマスカス、ウマイヤ・モスクのモザイク画(筆者撮影)

このようにウマイヤ朝では、その建築装飾として、しばしばビザンティン帝国由来のガラス・モザイクが用いられた。2度にわたってコンスタンティノープルを包囲したことからもわかるように、ウマイヤ朝はビザンティン帝国の征服を目指していたが、同時にビザンティン帝国の文化は成立間もないイスラーム王朝にとって積極的に継承されるべきものでもあった。しかし717年から翌年の第二次コンスタンティノープル包囲が失敗に終わると、ウマイヤ朝はビザンティン帝国の文化を積極的に取り入れる方針を転換する7。さらにウマイヤ朝が750年にアッバース朝によって滅ぼされ、新たな首都がバグダードに置かれることとなると、イベリア半島を除く地域のイスラーム建築においてガラス・モザイクは殆ど過去のものとなるのである。

7 Gibb, 1958: 225–29.

750年にアッバース朝によってウマイヤ朝が倒されたとき、唯一アッバース朝による虐殺から逃れることができたウマイヤ家出身のアブド・アッラフマーン1世(在位756-788年)は、6年をかけてシリアからイベリア半島にまで逃れ、そこに政権を樹立した(後ウマイヤ朝)。彼は788年までこの地を統治し、その晩年となる784/85年に後ウマイヤ朝の首都コルドバ(現スペイン領)に大モスクを建立した。この大モスクは、後ウマイヤ朝の君主たちによってその後3度にわたって増改築を繰り返すこととなるが、その中でも注目したいのがハカム2世(在位961–972年)によって増築された第2期(961–968年)の増築部分である。というのも、メッカへの礼拝方向を示すミフラーブを含んだこの南西部分には、ガラス・モザイクを含む華麗な建築装飾が施されているのである。しかしイベリア半島では、ガラス・モザイクはそれまで殆ど知られていなかった技術であり、当然その製作法を知る職人もいなかった。そこでハカム2世は、わざわざビザンティン皇帝8に使節を派遣し、モスク建設のためのモザイク職人を送るよう要請したとイスラームの歴史家は述べている9。ビザンティン皇帝はこの要請に応じ、モザイク師を派遣すると共に320キンタール10のモザイク・テッセラを後ウマイヤ朝の大使に持たせたという。この逸話からもわかるように、コルドバの大モスクはビザンティン帝国の技術とガラス・モザイクを用いた建築物ではあるが、そこに描かれたものはウマイヤ朝期のものと同様にクルアーンの章句と植物の文様であって、やはりビザンティン的な人物像・動物像はみられない。

8 年代的に、ビザンティン皇帝ニケフォロス2世フォカース(在位963–969年)のことだと考えられる。
9 イブン・アザーリー(13世紀後半〜14世紀初頭、イブン・イザーリーとも言う)の『バヤーン』による。Cf. Ibn ‘Adārī, 1901: 392.
10 ブルームらによれば、320キンタールは16,000kgとなる。Cf. ブルーム・ブレア, 2001: 143.

コルドバの大モスク、ミフラーブ周りのモザイク装飾
CC BY-SA 4.0(撮影:Ingo Mehling)
画像:Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37464031

では、なぜハカム2世は、わざわざ遠く離れたコンスタンティノープルへ大使を送ってまで、ガラス・モザイクによる装飾を行ったのだろうか。その要因の一つとしては、彼の父の代から後ウマイヤ朝の君主がカリフを称するようになった点があげられよう。ウマイヤ朝のカリフは、ダマスクスの大モスクのように、ビザンティン帝国のモザイク師にガラス・モザイクを施させた。その古例にならい、コルドバの大モスクにビザンティン由来のガラス・モザイクを施すことで、ウマイヤ家の末裔である自身の権威を正当化したものと考えられている11

11 杉村, 1999: 363.

コルドバの大モスク以降、イスラーム建築では、タイル装飾などの装飾法が優勢となり、ガラス・モザイクは殆ど用いられなくなっていく。しかしキリスト教圏11世紀以降もではビザンティン帝国のガラス・モザイクは珍重された。実際にヴェネチアやノルマン人支配下のシチリア、さらには地中海から遠くはなれたキエフ・ルーシ国などでも、ビザンティン帝国のモザイク師が仕事をしたことが確認される。11世紀半ばにその勢力を拡大したとはいえ、6世紀のユスティニアヌス帝期には地中海を内海とするほどに強勢を誇ったビザンティン帝国も7世紀以降になると地中海世界に無数に存在する王朝のうち一つでしかなかった。しかし、そうなった後でさえもビザンティン帝国の有する文化は地中海世界における羨望の的でもあった。そうした当時の状況を物質的に示す一つの証拠が、地中海世界に散らばるガラス・モザイクなのだといえるだろう。

シチリアのマルトラーナ教会堂、ドームのモザイク装飾(筆者撮影)

参考文献:

佐々木英也. 1989. 『オックスフォード西洋美術事典』講談社.

佐々木淑美・佐野千絵・石崎武志. 2015.「ハギア・ソフィア大聖堂モザイクの金テッセラの分析―色彩と組成からの制作年代の推定―」.保存科学, 54, 227–39.

杉村練(編). 1999.『世界美術大全集:イスラーム』小学館.

J. ブルーム・S. ブレア著, 桝屋友子訳. 2001.『イスラーム美術』岩波書店.(Bloom, Jonathan and Sheila Blair. 1997. Islamic Art. London: Phaidon.)

C.マンゴー著、飯田喜四郎訳. 1999.『ビザンティン建築』本の友社.(Mango, Cyril. 1978. Byzantine Architecture. Milan: Electa Editrice.)

Blair, Sheila S. and Jonathan M. Bloom. 1995. The Art and Architecture of Islam:1250–1800. Reprint, Harmondsworth: Yale University Press.

Gibb, Hamilton A. 1958. “Arab-Byzantine Relations under the Umayyad Caliphate.” Dumbarton Oaks Papers 12, 219–33.

Hillenbrand, Robert. 1994. Islamic Architecture: Form Function, and Meaning. New York: Columbia University Press.

Ibn ‘Adārī, Al-Marrākushī. 1901. Histoire de l’Afrique et de l’Espagne, Intitulée al-bayano’l-Mogrib. Translated and annotated by Fagnan, Edmond. Algerira: Imprimerie Orientale P. Fontana Et Cie.

Rebstock, Ulrich. 2016. “Weights and Measures in Islam.” Edited by Helaine Selin. Encyclopaedia of the History of Science, Technology and Medicine in Non-Western Cultures. Dordrecht: Springer Netherlands.

執筆者プロフィール

(Ryo Higuchi)

名古屋大学高等研究院/人文学研究科・特任助教

1987年生。2018年東京工業大学で学位所得後、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2021年より現職。
https://researchmap.jp/ryo_higuhi

ひとこと

西欧でもアジアでもない地域の人々に魅せられて、そこに残された建築を通じてこの地域の文化を何か知ろうとしてきました。現在はビザンティンを中心とした中世の地中海世界において、建設活動の主要な担い手であった工匠達がどのように経験的な知見や技能を継承・伝達し、どのように建物を作ってきたのか、そして彼らがどのようなことを考えていたのかということに関心を持ち、研究しています。

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