マドラサ——中世イスラーム世界における知の伝承

2021年 03月01日

記事ID:0008

タグ:歴史文化マドラサ

執筆者:大津谷 馨

マドラサは、法学をはじめとする諸学問の教育を行う施設で、アラビア語で「学ぶ場所」を意味する。マドラサは、それまでモスクなどで行われていた教育活動のために専用の場所や様々な便宜を提供する新たな仕組みとして登場し、10世紀にイラン北東部ホラーサーンに建設されはじめたとされる。11世紀にはセルジューク朝(1038–1194年)の宰相ニザーム・アルムルク(1092年没)がバグダードなどの主要都市にニザーミーヤ学院を建設した。12世紀に入るとマドラサはシリア各地に建設され、同世紀後半にはアイユーブ朝(1169–1250年)下のエジプトに導入された。13世紀・14世紀になるとマドラサは北アフリカからアナトリア、イランにいたるまで広い地域で見られるようになり、マムルーク朝下のエジプトやシリアの都市でも多くのマドラサが建設された1。現在のカイロでも、カラーウーンの寄進施設のある旧市街でマムルーク朝期に建設されたマドラサを目にすることができる2

1 Berkey, 1992: 6–9; 谷口, 2011: 62–63, 65–66; 湯川, 2009: 70–71.
2 Behrens-Abouseif, 2007: 119–121, 132–143, 152–156, 201–213, 225–230, 239–244, 255, 259–260, 298; Berkey, 1992: 61, 69–70; Petry, 1981: 330–333.

通りから見たスルターン・バルスバーイの複合施設
(カイロ, 2019年9月5日筆者撮影)
©Qalawun VR Project

このようなマドラサの建設は、国家事業というよりは、スルターン、マムルーク、商人、学者などの有力な個人やその家族による私的な寄進事業だった3。建設者はワクフ財(寄進された財産)とその収益の管理・運営に責任を持つナーズィル(管財人)に子孫を任命することによって財産を残し、自身の名を冠したマドラサを建設することによって慈善活動を記念することを意図していた4。また軍人によるマドラサ建設の理由としては、ウラマーを庇護することで彼らの支持を得ることや、イスラームの宗教および学問への個人的関心も挙げられる5。マドラサの教授の任命については、建設者やナーズィルが任命権を持っていたが、カーディー(裁判官)やスルターンなどが影響力を行使することもあった6。ただし実際には、教授職にあるウラマーが退任に際してその職を、親類、弟子、友人に継承させることが多かった7

3 Berkey, 1992: 61.
4 Behrens-Abouseif, 2007: 12; Berkey, 1992: 128–142; Miura, 2015: 24; 谷口, 2011: 68–69; 三浦, 1995, 30, 34.
5 Berkey, 1992: 101; Miura, 2015: 23–24; 三浦, 1995: 30.
6 Berkey, 1992: 96–107; Chamberlain, 1994: 94–97.
7 Berkey, 1992: 112–113, 119–127; Chamberlain, 1994: 94–95.

マドラサの設備に目を向けると、大規模なマドラサには、中庭を囲む建物の一部に授業を行うホールと礼拝室、さらに学生や教授の居室が設置された。そのほか、図書館、クッターブ(クルアーンの読み書きなどを教える初等教育施設)、創設者の墓や廟などが付設されることもあった8。マドラサには、講義を行う教授やナーズィルのほかに、イマーム(礼拝の導師)やハティーブ(説教師)、ムアッズィン(礼拝の呼びかけ人)、クルアーンやハディース(預言者ムハンマドの言行録)の朗誦者、門番などの職が置かれた9。教授は多くても数人から10人程度、正規学生は最大級のマドラサで数百人、小さなマドラサでは10人前後だった。授業料は徴収されず、生活手当や毎日の食事が提供され、季節ごとの衣服や文具が学生に支給された10。また祝祭日には肉料理など特別な食事が提供された11。学生には初等教育を終えた十代後半から二十代前半の者が多かったと思われるが、年齢制限や修業年限は特になかった。マドラサでは男性のみを受け入れるのが普通だった12

8 Miura, 2015: 29–32; 谷口, 2011: 63; 三浦, 1995: 33–34.
9 Berkey, 1992: 62–66; Miura, 2015: 34–36;三浦, 1995: 36.
10 谷口, 2011: 63–65; 長谷部, 2004, 63; 湯川, 2009: 74–76.
11 長谷部, 2004, 62–65.
12 谷口, 2011: 63–65; 湯川, 2009: 74.

一方、女性は、モスクやマドラサなどを建設したり施設の管理・運営を行うことはあったが13、マドラサの教授や学生になることはできず、女性の教育は家庭や私的な集まりで行われていたと考えられる14。またハディース伝承においては、介在する伝承者の人数が少ない方が価値が高いとされたため、一般に男性よりも平均寿命の長い女性の伝承者が重用され、幼い頃にハディースを伝承された女性が高齢になってから伝承者となる例も見られる15。ただし史料では、大多数の女性については実際の学問・教育活動への参加の記録は見られない。さらに女性のハディース伝承者についての史料記述からは、伝承を通じた預言者との結び付きを示すことで、その女性の敬虔さを強調しようとする意図が読み取れる16

13 Berkey, 1992: 162–165; Igarashi, 2019.
14 Berkey, 1992: 165–175; 谷口, 2011: 65.
15 Berkey, 1992: 175–181; Sayeed 2013; Davidson, 2020: 174–201.
16 Davidson, 2020: 174–201.

スルターン・バルスバーイの複合施設の入り口上部
(カイロ, 2019年9月5日筆者撮影)
©Qalawun VR Project

次に、マドラサで講義の行われる科目については、例えば、カイロにあるスルターン・ハサン(在位1347–51年、1354–61年)のマドラサでは、法学、ハディース学、クルアーン解釈学、アラビア語学、医学、天文学などの講義が行われた17。明確なカリキュラムはなく、講義では教授自身の著作または彼が教授免許を持つテキストが講じられ、その読誦と暗誦が中心だった。読誦と暗誦は、マドラサに限らず学問伝授の際に重視された18。その背景としては、以下の二点が指摘できる。まず、アラビア文字では、子音のみを書き母音符号が書かれることが少ないため、読誦を伴って初めて正確に情報を伝えることができる。次に、アラビア半島では、イスラーム以前からの口承文化の伝統に基づき、クルアーンは暗唱されるべきものであると考えられていた19。そのため、書物が伝達手段として広く普及してからも口承の重要性は保持され、読み書きを通じた伝承と共存していた20。また、マドラサでは教授から学生への個人的な伝承が重視され、教授の名で発行された免状(イジャーザ)は存在したが、マドラサの卒業証明書のようなものは存在しなかった21

17 Berkey, 1992: 67–69; 谷口, 2011: 63–64; 長谷部, 2004, 58.
18 谷口, 2011: 34–36, 64–65.
19 谷口, 2011: 37–38.
20 Hirschler, 2012: 12–17; 谷口, 2011: 36–37.
21 Chamberlain, 1994: 82, 89: 谷口, 2011: 38–39, 65. イジャーザの発展やイジャーザの種類については、Davidson, 2020: 108–151参照。

スルターン・ハサンの複合施設の中庭
(カイロ, 2013年2月21日筆者撮影)
©Qalawun VR Project

さらに、教育の場はマドラサに限られていたわけではなく、モスク、ハーンカー(スーフィーの修道場)、また私邸などでも教育活動が行われていた22。マムルーク朝下のカイロにおける教育活動についての研究では、史料の中でのマドラサ、モスク、ハーンカーなどの明確な区別が1330年頃までには薄れ始め、同じ施設に対して様々な語彙が使われるようになっていったことが明らかにされている。これは、教育においてどの機関で学んだかよりもどの学者から学んだかが重要であり、教師から学生への口頭での個人的な伝承が重視されたことが背景にある。多くのマドラサの教授はマドラサの外でも教えており、個々の学者を中心とした学習サークルも存在した。このように、教育活動は場所に重きを置かず、個人的な伝承を基調とするインフォーマルで柔軟な性格を持っていた23

22 Berkey, 1992: 16, 50–60; Chamberlain, 1994: 80, 84; Tibawi, 1962: 236; 谷口, 2011: 65–66.
23 Berkey, 1992: 16, 50–60, 85–88.

また、マドラサでの講義は正規の学生だけでなく、ムアッズィンや門番などの職員のほか、外部の者にも開かれていた24。さらに、モスクやマドラサでは書物の読み上げを聞く集会が定期的に開催されていた。例えば、12世紀に著された歴史書『ダマスクス史』は、ダマスクスのウマイヤ・モスクなどにおける集会で、著者イブン・アサーキル(1176年没)自身やその息子や甥などの監督下で専門の読誦者により読み上げられ、12世紀後半から13世紀前半にかけて数百回に及ぶ集会が開かれた。その参加者は、学者だけでなく、職人や商人、子供や女性や使用人、軍人と幅広く、知の大衆化が進んでいたことが見て取れる25

24 Berkey, 1992: 198–201.
25 Hirschler, 2012: 32–81.

スルターン・バルスバーイの複合施設の内部
(カイロ, 2019年9月5日筆者撮影)
©Qalawun VR Project

参考文献
Behrens-Abouseif. Doris. 2007. Cairo of the Mamluks: A History of the Architecture and Its Culture. Cairo: The American University in Cairo Press.

Berkey. Jonathan. 1992. The Transmission of Knowledge in Medieval Cairo: A Social History of Islamic Education. Princeton: Princeton University Press.

Chamberlain. Michael. 1994. Knowledge and Social Practice in Medieval Damascus, 1190–1350. Cambridge: Cambridge University Press.

Davidson. Garrett A. 2020. Carrying on the Tradition: A Social and Intellectual History of Hadith Transmission across a Thousand Years. Leiden and Boston: Brill.

Hirschler. Konrad. 2012. The Written Word in the Medieval Arabic Lands: A Social and Cultural History of Reading Practices. Edinburgh: Edinburgh University Press.

Igarashi. Daisuke. 2019. “Father’s Will, Daughter’s Waqf: A Testamentary Waqf and Its Female Founder/Administrator in Fourteenth-Century Egypt.” Orient 54 (2019): 41–53.

Miura. Toru. 2015. Dynamism in the Urban Society of Damascus: The Ṣāliḥiyya Quarter from the Twelfth to the Twentieth Centuries. Leiden: Brill.

Petry. Carl F. 1981. The Civilian Elite of Cairo in the Later Middle Ages. Princeton: Princeton University Press.

Sayeed. Asma. 2013. Women and the Transmission of Religious Knowledge in Islam. Cambridge: Cambridge University Press.

Tibawi. Abdul Latif. 1962. “Origin and Character of ‘al-madrasah.’” Bulletin of the School of Oriental and African Studies 25, 1/3 (1962): 225–238.

秋葉淳1995「ジョナサン・バーキー著『中世カイロにおける知識の伝達:イスラム教育の社会史』」『東洋学報』77: 156–164.

谷口淳一2011『聖なる学問、俗なる人生:中世のイスラーム学者』山川出版社.

長谷部史彦2004「中世エジプト都市の救貧:マムルーク朝スルターンのマドラサを中心に」『中世環地中海圏都市の救貧』慶應義塾大学出版会: 45–89.

三浦徹1994「批評と紹介:M・チェンバレン著『中世のダマスクス(1190–1350年)における知と社会的実践』」『東洋学報』79: 120–128.

—1995「ダマスクスのマドラサとワクフ」『上智アジア学』13: 21–62.

湯川武2009『イスラーム社会の知の伝達』山川出版社.

執筆者プロフィール

大津谷 馨(Kaori Otsuya)

リエージュ大学哲学文学研究科博士課程(FNRSフェロー)

京都大学文学研究科で修士課程修了後、同研究科博士課程に進学。ボン大学Annemarie Schimmel Kollegのフェロー、日本学術振興会特別研究員(DC2)を経て、2019年よりリエージュ大学博士課程在学(FNRSフェロー)。

論文に、“Mālikī Imams of the Sacred Mosque and Pilgrims from Takrūr,” Chroniques du manuscrit au Yémen 25 (2018): 53–72.

ひとこと

13~15世紀メッカ・メディナのウラマーの活動について研究しています。人が絶えず流入しムスリム君主たちの思惑が交錯するイスラームの二大聖地において、世界各地から来訪した人々がいかに共存し、社会に統合されていたのか、またいかに支配者や民衆と関わっていたかに興味を持っています。

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