カラーウーンの寄進施設は、バイナル・カスラインの西側に沿って建設された。ムイッズ通りをはさんで、かつてのカラーウーンの主君であったアイユーブ朝スルターン・サーリフの廟と、盟友でもあるマムルーク朝スルターン・バイバルスのマドラサに対面する位置にある。

Source: Esri, map data: OpenStreetMap.

カラーウーンの寄進施設の入口をくぐると通廊がのび、この通廊をはさんで右手に廟、左手にマドラサが配置されている。さらに、通廊の奥には、病院の敷地が広がっている。

この廟の西側(病院側)には、前室が置かれ、参詣者は通廊からまず前室を通り、廟に入るように設計されている(現在は、通廊脇の入口も開放されており、直接廟に入ることもできる)。

廟は、四方形の空間の内部に八角形状に柱が置かれ、内陣と外陣に分かれている。内陣の頂部はドームで覆われている。この内陣の床下に創建者のカラーウーンとその息子のスルターン・ナースィル・ムハンマド、孫のスルターン・サーリフが眠っている1 。内陣の中央には、木製の棺が置かれているが、これはセノタフ(模棺)であり、この下に遺体が埋葬されていることを示すものである。外陣には、ムイッズ通り側の面にミフラーブ(カーバ神殿のあるメッカの方角を示す壁の凹み)がある。

1 Khiṭaṭ, 4: 516.

外陣と内陣を仕切る格子壁
内陣中央に置かれたセノタフ(模棺)

この廟は上述のスルターンたちの埋葬場所としてのみならず、学問の場としても機能していた。例えば、ハディース(預言者の伝承)やタフスィール(クルアーン解釈学)の講座がここで開講された。講座の運営費は、カラーウーンが寄進したカイロの商業施設や浴場、果樹園などから拠出され、クルアーン読誦者を50名、ハディースの講義とタフスィールの講義を担当する教授を1名ずつ、礼拝を先導するイマーム(導師)を1名、アザーン(礼拝の呼びかけ)を行う者を6名、その他助手や6名の使用人などを任命して給与を支給した。また、ハディースの講義とタフスィールの講義を受講する学生それぞれ30名ずつ(計60人)に奨学金と寄宿舎を提供した2

カラーウーンの息子で彼の後を継いでスルターン位に就いたスルターン・ハリール(在位1290–94)は、十字軍との戦争で奪取したスールとアッカーの村や港湾都市を「特別区」に指定し、この廟の財源として寄進した。これにより、もともと廟の運営に携わっていた50名のクルアーン読誦者と1名のイマーム、6名の使用人は、新たに加えられたこの財源から追加の給与を得ることとなった。その他、礼拝や祈祷の際に必要とされる油や蝋、敷物の購入資金、水車の修繕費なども、この財源から支出された3

2 Nihāya, 31: 110–11.
3 Sulūk, 1: 769; Khiṭaṭ, 4: 523

また、カラーウーンの孫であるスルターン・アブー・バクル(在位1340–41)は、廟で実施するクルアーンの読み書き講座のための財源を寄進し、従来の学生にくわえて、貧者と孤児にも、クルアーンの学習に励むことを条件にパンと奨学金を支給した。同様にカラーウーンの孫であるサーリフ(在位1351–54)は、マドラサで開講される法学の講義とは別に、この廟でも4つの法学派がそれぞれ講義を開講できるように財源を提供した4。これら追加で開講されることとなった講座もまた、寄進制度を通じてその運営を支える体制が整えられたのである。こうして、廟では恒常的にクルアーンや法学の講義が実施されることとなり、ここに葬られたカラーウーンとナースィル・ムハンマド、サーリフは、クルアーンやハディースが読誦されるのを聞きながら、最後の審判の日まで安らかに眠ることができる理想的な環境を手に入れることとなった。廟でクルアーンの読み書き講座が設置されたのは、こうした理由によるものであった。

4 Khiṭaṭ, 4: 518.

この他、この廟は、王権に関わる重要な儀式が実施される場でもあった。マムルーク朝が始まって以来、叙任の際には、スルターンから名誉の賜衣(ヒルア)を授けられたアミールたちが、それをまとって山の城塞からアイユーブ朝スルターン・サーリフの廟に向かって行進するのが慣わしであった。それが、カラーウーンの後は、行進の到達地がカラーウーン廟に変更され、カラーウーンの墓前で宣誓を行うようになった。そして、廟内で豪華な宴会が開かれたという。こうした慣行は、カラーウーンの子孫がスルターン位に就く、「カラーウーン王朝」の終焉とともに途絶えた5

5 Khiṭaṭ, 4: 522; Behrens-Abouseif, 2007: 138.

マムルーク朝建築の中で最も豪華と言われる廟のミフラーブ

ミナレット

廟の通り沿いの北側には、石造のミナレットが設置されている。べーレンス・アブーセイフによれば、この配置は、その後マムルーク朝の廟建築を特徴付けることになるドームとミナレットの並置の最初期の事例であるという6。凱旋の際などは、北のフトゥーフ門から市内に入り、バイナル・カスラインを南下していくという順路をとったので、視覚的にもこのミナレットは重要な位置にあったと言える。

6 Behrens-Abouseif, 2007: 134.

イスラーム建築史家のクレスウェルによる計測では、ミナレットの地上からの高さは56.2mである。また、この寄進施設のミナレットは、ファーティマ朝時代に建設されたハーキム・モスク(992年創建)以来の石造ミナレットであったという。このミナレットの上から、日に5回、礼拝の時刻を知らせるアザーンが肉声で行われた7

7 Behrens-Abouseif, 2007: 135.

カラーウーンの寄進施設のミナレットをバイナル・カスラインの北側から撮影。その隣には、奥から、スルターン・ナースィル・ムハンマドの寄進施設のミナレットとドーム、スルターン・バルクークの寄進施設のミナレットがそびえる

マドラサ

通廊を挟んで廟と反対側の一角はマドラサとなっている。マムルーク朝期の伝記作家であるシャーフィウ・ブン・アリー(1330年没)によれば、スルターンは当初、マドラサの建設を計画していなかったが、建設工事を指揮したアミール・サンジャル・アルシュジャーイーがそれを加えることにしたのだという。スルターンはこのことを知ると立腹し、施設の完成後に初めて病院を訪れた際にはマドラサに入ることを拒んだとの逸話が伝えられている8。また、歴史家キルターイ(1308年以降没)によれば、カラーウーンはアイユーブ朝スルターン・サーリフ(在位1240–49)の廟の真向かいに彼の廟を建てることを望んでいたという9。しかし、実際は、サーリフ廟の真向かいにあたるのはマドラサの空間となっている。カラーウーンの寄進施設は、サーリフの廟とそれに隣接するマムルーク朝スルターン・バイバルス(在位1260–77)のマドラサと向かい合っている。カラーウーンもバイバルスも、かつてはサーリフに仕えた仲間であり、バイバルスの息子とカラーウーンの娘が結婚したことにより姻戚関係でも結ばれていたのであった。カラーウーンが自身の施設の建設場所をこの場所に選んだのは、こうした特別な理由によるものであったと考えられる10

8 Behrens-Abouseif, 2007: 134.
9 Northrup, 1998: 119.
10 Behrens-Abouseif, 2007: 134.

マドラサには、中庭を中心にして、東面に礼拝室、西面(病院側)にイーワーン、北面(通廊側)に小イーワーンと3層の居室、南面にはアーケードがある。この南面のアーケードは、18世紀半ばにアブド・アッラフマーン・カトフダーによって行われた修築の際に追加されたものであり、元来は、北面と同様に小イーワーンと3階建ての寄宿舎があったとされる。

北面(通廊側)に残る寄宿舎

礼拝室は、身廊と側廊を持つバシリカ式となっている。身廊のバイナル・カスライン側の面には、ミフラーブがあり、その隣には、礼拝を先導するイマーム(導師)がフトバ(説教)を行うためのミンバル(説教台)が置かれている。

マドラサのイーワーンと礼拝室では、スンナ派の主流派を構成する4つの法学派(シャーフィイー派、ハナフィー派、マーリク派、ハンバル派)それぞれの講義や、クルアーンの読み方についての講義が開講された。イマームは、マムルーク朝において最上位を占めたシャーフィイー派から選ばれたが、法学の講義は4つの法学派それぞれに開講され、各学派に1名ずつの教授と3名の助手が置かれた。こうした運営スタッフの他、使用人や門番が置かれ、給与が支給された。14世紀初頭には、50名の学生がこのマドラサに学んでいたと伝えられており、彼らには奨学金と寄宿舎が提供された11

11 Nihāya, 31: 112.

礼拝室

病院

入口から通廊を抜け、廟とマドラサを過ぎると、左右に通廊が続き、病院へと通じる。病院は、この複合体の中でもとりわけ公共性を有する施設と言えるが、病院の建物はバイナル・カスラインからは見えない位置にある。

カラーウーンは、病院を建設することを主目的としてこの複合施設を寄進したと言われ、次のような話が伝えられている。彼がシリア地方で重い病気にかかり、生死をさまよっていたとき、ダマスクスのヌーリー病院にあった薬を医者が処方したことによって治癒した。ヌーリー病院は、ザンギー朝君主ヌール・アッディーン(在位1146–1174)がワクフにより建設した病院であったが、その処置に感銘を受けたカラーウーンは、快復後、ヌーリー病院を訪れ、カイロに同様の病院を作ることを神に誓ったのだという12。病院の建設地は、かつてはファーティマ朝カリフ・アズシーズ・ビッラーの娘であるシット・アルムルクが所有し、その後、アイユーブ朝スルターン・アーディルの息子であるクトゥブ・アッディーン・アフマドの住居となっており、クトゥビーヤ邸として知られていた。その後も、クトゥビーヤ邸はクトゥブ・アッディーンの子孫の所有となっていたが、カラーウーンはこれを強制的に立ち退かせ、病院の建設を強行した13。カラーウーンの寄進施設の工事を担当したアミール・サンジャル・アルシュジャーイーは、クトゥビーヤ邸のレイアウトを残しつつ病院を建設したという。そこには、4つのイーワーンがあり、各イーワーンにはシャディルヴァン(滝上装置)を備えた泉水を残したという14

12 Khiṭaṭ, 4: 694.
13 Ta’rīkh Ibn al-Furāt, 7: 278.
14 Khiṭaṭ, 4: 694–95.

東イーワーンに残るシャディルヴァンと泉水盤

このようにして建設されたカラーウーンの病院では、軍人や文民を問わず、すべてのムスリムたちが治療対象として受け入れられた15。また、入院期間の制限はなく、患者が退院する際には、祝儀として金銭や衣類が支給され、亡くなった際には、遺族に葬儀を実施するための費用が支給された16。このように、カラーウーン病院は、疾病や外傷を負ったムスリムへの治療のみならず、彼らの生活をも補助する福祉的役割をも果たしていた。一方で、ユダヤ教徒とキリスト教徒などのいわゆる「庇護民」(ズィンミー)は、患者としてはもちろんのこと、病院の運営に携わることも固く禁じられた17。医師長を擁する病院で当時の最先端医療を受けることができたのは、イスラーム教徒に限られていたのであった。

15 Tadhkira, 1: 358–59.
16 Tadhkira, 1: 367; ‘Īsā, 1981: 96.
17 Tadhkira, 1: 363, 367.

病院の体制は、内科、眼科、外科、整形外科の4科が置かれ、科長(ライース)が各科を統括した18。その中でも、内科長は、総ての科を統括する医師長(ライース・アルアティッバー)としての役割を担った。さらに、医師長は院内だけでなく、エジプトとシリアのすべての医師の上に立つ職位に位置づけられていた。また、病院では、医師長の監修のもと、医学に関する講義も行われた。講義を通じて、医学生が医師としての素養を一通り身に着けると、彼が専攻した科の長から免状(イジャーザ)が発行された19

18 寄進文書には、内科、眼科、外科の3科しか言及がないが、14世紀初頭に病院の管財人を務めたヌワイリーは、病院には前述の3科に整形外科をくわえた4科が設置されていたと記している。つまり、整形外科の設置は、病院が運営を開始してしばらく経過したのちと推察できる(Nihāya, 31: 107)。また、内科長が医師長を兼務する点については、以下を参照。 Behrens-Abouseif, 1987: 3, 5–6; 菊池, 1992: 51.
19 Doris Behrens-Abouseif, 1987: 6.

病院の中庭。奥に見えるのは、カラーウーンのミナレットとドーム。左手前が北イーワーン。

カラーウーン病院では、下痢、熱病患者、外傷患者、精神疾患患者などの症状に応じた病室を確保していた。14世紀エジプトの歴史家マクリーズィー(1444年没)は次のように伝えている。

スルタン(=カラーウーン)は、病院に、病状者への対応にあたる男女の使用人を配置し、給与を支給した。病状者にはベッドを用意し、必要なシーツ一式で覆った。また、病状ごとに集団を分け、別々の場所を割り当てた。この病院の4つのイーワーンに女性の熱病患者やその他(の病状者)を割り当て、眼科医の部屋(qā’a)、外科医の部屋、下痢の症状のある者のための部屋、女性のための部屋を設けた。また死者のための場所が設けられ、男性用と女性用の区画に分けた。(Khiṭaṭ, 4: 696)

また、19世紀の建築家パスカル・コステ(1879年没)が描いたカラーウーンの寄進施設の平面図からも、症状や性別によって診療スペースが分けられていたことがわかる。

サビール・クッターブ

入口に向かって左手(マドラサ側)の外壁の角には、サビール(給水施設)の遺構が残されている。創建当時、ここには動物のための水場が設置されていた。その後、この水場から悪臭が出ていたことが問題となり、1326年の修築のさいに、人間のための給水施設に置き換えられた20

20 Khiṭaṭ, 4: 697.

その後、アミール・アルグーン・アルアラーイーによって、1346–47年に1階にサビール、2階にクッターブ(孤児にクルアーンの読み書きを教える初等教育の場)を持つマクタブ・サビールが建設されたという21。現在では、そのような階層を持つ建物は残っていないが、19世紀末の描画では、入口手前のアーケード部分の上層に木材による増築が確認できる。

21 Sulūk, 2: 700.

作者不明の描画(1878年)。この描画では、入口左手のアーケード部分の上に、木材による増設が見られる。
出典:Ebers, Georg. “Egypt: Descriptive, Historical, and Picturesque.” Volume 1. Cassell & Company, Limited: New York, 1878. p 247.
画像:TIMEA(https://scholarship.rice.edu/handle/1911/21283

参考文献
一次文献
Khiṭaṭ: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad ibn ʿAlī ibn ʿAbd al-Qādir. 2002–04. al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār fī Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār. London: al-Furqān Islamic Heritage Foundation.
Nihāya: Nuwayrī, Aḥmad ibn ʻAbd al-Wahhāb. 1923–55 (vol. 1–18); 1975–92 (vol. 19–31). Nihāyat al-Arab fī funūn al-adab. 31 vols. Cairo: Maṭbaʻa Dār al-Kutub al-Miṣrīyah.
Sulūk: al-Maqrīzī, Taqī al-Dīn Aḥmad b. ‘Alī b. Abd al-Qādir. 1939–73. Kitāb al-Sulūk li-Maʻrifat Duwal al-Mulūk. 4 vols. Cairo: Maṭba’a Dār al-Kutub al-Miṣrīya.
Tadhkira: Ibn Ḥabīb, Badr al-Dīn al-Ḥasan b. ‘Umar al-Ḥalabī. 1976–82.Tadhkirat al-nabīh fī ayyām al-Manṣūr wa banī-hi. 3 vols. Cairo: al-Hay’a al-Miṣrīya al-‘Āmma.
Ta’rīkh Ibn al-Furāt : Ibn al-Furāt, Muḥammad ibn ʻAbd al-Raḥīm. 1936. Ta’rīkh Ibn al-Furāt. Beirut: al-Maṭba’a al-Amirkānīya.

二次文献
Behrens-Abouseif, Doris. 1987. Fatḥ Allāh and Abū Zakariyya: Physicians under the Mamluks. Cairo: Institut français d’archéologie orientale.
————-, 2007. Cairo of the Mamluks: a history of the architecture and its culture. Cairo, Egypt: American University in Cairo Press.
‘Īsā, Aḥmad, 1981. Tārīkh al-Bīmāristānāt fil-Islām. Beirut: Dār al-Rā’id al-‘Arabī.
Northrup, Linda Stevens. 1998. From slave to sultan: the career of Al-Manṣūr Qalāwūn and the consolidation of Mamluk rule in Egypt and Syria (678-689 A.H. /1279-1290 A.D.). Stuttgart: F. Steiner.
菊池忠純, 1992. 「マムルーク朝時代のカイロのマンスール病院について——ワクフ設定文書の再検討を通じて」『藤本勝次 加藤一朗両先生古稀記念中近東文化史論叢』同朋舎, 47–67.

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