欧米語表記:Mosque of Aqsunqur アラビア語転写表記:Masjid Āq Sunqur
マムルーク朝のアミール・アークスンクルによって1346/7年に建設されたモスク。彼はスルターン・ナースィルに仕え、ナースィルの娘婿となり、ナースィルの死後、その未亡人とも婚姻を結んだ。モスクは、カーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)の南門であるズウェイラ門と城塞を結ぶ通りに面し、東市壁の近くに位置する。中庭を囲む多柱式のモスクであり、太いピア(構造柱)にクロス・ヴォールトが架けられている。円柱に木造平天井が架けられることが一般的であるカイロのマムルーク朝建築において、このような様式はここでしか見られない。西側のファサードの北にクジュク(1342年没、スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子)の廟、南に円形断面のミナレットがある。使われたタイルの色からブルー・モスクとも呼ばれるが、タイルはオスマン朝期の1652年に、イブラヒム・アガ・ムスタフフィザーンによって修復された際に張られたものであり、その際には、回廊の南西部にタイル張りの廟が修復者のために設けられた。20世紀末にアガ・ハーン財団による修復が行われた。
欧米語表記:Aqmar Mosque アラビア語転写表記:Masjid al-Aqmar
ファーティマ朝末期(1125年)の中規模モスクで、宮殿都市カーヒラ北部の中央通り(現在のムイッズ通り)沿いに建設された。ファーティマ朝期のカーヒラにはこの通りを挟んで東の大宮殿と西の小宮殿があった。多柱式(柱を碁盤目上に林立させて空間を作る方法)の礼拝室と中庭(サハン)とそれを囲む周廊(リワーク)からなる。ファサードにはシーア派の一派であるイスマーイール派と関連する図像や装飾がある。マムルーク朝期には、アミール・ヤルブガーが1396年に改修を行い、ミナレットを増築したが、ミナレットが傾いたために1412年に再度改修された。20世紀に入ってからもアラブ美術の歴史建造物修復委員会の修復、1990年代にイスマーイール派ボホラーの資金による修復がなされた。レンガ造ミナレットのムカルナスのバルコニーとその下のシャフト、各ベイを覆う曲面天井はマムルーク朝の建築だと推察される。
欧米語表記:Mausoleum of al-Ashraf Khalil アラビア語転写表記:ḍarīḥ Sulṭān al-Ashraf Ṣalāḥ al-Dīn Khalīl b. al-Manṣūr Qalāwūn
スルターン・カラーウーンの息子でスルターン位を継承したアシュラフ・ハリール(在位1290-93年)が、1288年にカイロの南の墓地に建設した墓建築。南の墓地には預言者ムハンマドの係累の墓が建設され、アッバース朝から招来されたカリフの墓も1243年に建設されていた。現在、併設されたというマドラサの跡形は残っていない。正方形の墓室とキブラ軸手前の奥行きの浅い前室という構成は、近傍に位置し、先例となるファーティマ・ハトゥーン(ハリールの兄サーリフの母)廟(1283/4年創建)と類似する。マムルーク朝建築のドームには珍しいドーム周囲の8つのバットレスをもち、カラーウーンの墓室のドームの復元の際にこの様式が用いられた。
欧米語表記:Azhar Mosque アラビア語転写表記:Jāmi' al-Azhar
ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの大モスクとして、矩形都市のほぼ中央に建設され、その後も教学の場として増築・改築が重ねられ、現在も宗教的権威をもつモスク。10世紀後半のファーティマ朝期にさかのぼる部分は、中庭の周囲と東側の天井高の低い多柱式の礼拝室である。マムルーク朝期には3つのマドラサと2本のミナレットが付設され、オスマン朝期には礼拝室がキブラ方向に大きく拡張された。2000年代に入ってからも修復が続き、サウジアラビアの基金により中庭周りは純白に姿を変えた。
欧米語表記:Mosque of 'Abd al Ghani al-Fakhri アラビア語転写表記:Masjid 'Abd al-Ghānī al-Fakhrī
スルターン・ファラジュとスルターン・ムアイヤド・シャイフの宰相(ワズィール)であったアブドゥル・ガニー・アルファフリーが1418年に、現在のポートサイード通りに面して建設したモスク。4イーワーン式のモスクであり、礼拝室には2本の円柱が据えられている。カラーウーンの礼拝室に見られる円柱を用いた3廊構成は、スルターン・バルクークの複合施設(1384-86年)と、同建築の3例が現存するのみである。三者を比較すると、次第に柱の数が減り、囲まれた部分は横長になっていく傾向が見られる。
欧米語表記:Mosque of Ibn Tulun アラビア語転写表記:Masjid Aḥmad Ibn Ṭūlūn (Masjid Ibn Ṭūlūn/Masjid al-Ṭūlūnī)
アッバース朝から派遣されたエジプト州総督で、後にエジプトに独立政権を確立したイブン・トゥールーンによって876-79年に建設された大規模なモスクであり、それ以前に創建されたアムル・モスクと比べて、当初の姿をよく残している。マムルーク朝期には、フスタートとカーヒラの中間、城塞の西側という重要な位置を占めた。スルターン・ラジーン(在位1296-99年)によって、礼拝室中央のミフラーブ周囲、中庭中央のドーム建築、ミナレットなどが増改築された。ミフラーブはガラス・モザイクを伴い、ミフラーブ前のドームには木造ムカルナスが採用され、マムルーク朝期に礼拝室の南東部に増築されたミナレットは20世紀に解体された。また、1475年にスルターン・カーイトバーイが外庭(ズィヤーダ、モスクを囲む無蓋の空間)にサビールを増築した。
欧米語表記:Dome of the Rock アラビア語転写表記:Qubbat al-Ṣakhra
エルサレムにある、預言者ムハンマドが昇天(ミーラージュ)をおこなった聖地に建てられたドーム建築。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地として位置づけられている、ユダヤ教、キリスト教の聖地でもあるエルサレムの聖域ハラム・シャリーフ(神殿の丘)の中央に位置し、ドームの内部には聖なる石を祀っている。
欧米語表記:Umayyad Mosque at Damasqus アラビア語転写表記:al-Jāmi' al-Umawī
ウマイヤ朝の首都ダマスクスに8世紀初頭に建設された大モスク。現存するモスクの中では創建当初の形をよく保っていることから、最古のモスクともいわれる。古代ローマ時代のジュピター神殿、キリスト教公認以後のヨハネ大聖堂の敷地を利用した建築で、現在も周壁や柱に当時の部材が姿を見せる。円柱の使用やガラス・モザイクなど、古代地中海的な様式が強いモスクである。マムルーク朝期にも何度か修復がなされ、スルターン・ナースィル・ムハンマドのもとでシリア総督であったタンキズによって大規模な修復がなされている。
欧米語表記:Qa'a Dardir アラビア語転写表記:Qā'at al-Dardīr
ファーティマ朝の宮殿の遺構とされるもので、オスマン朝の住宅の一部を占めるが、カーアの中では古いものとして位置付けられる。一方、建設年代に関しては、3部構成の両端部のヴォールト天井やアーチの様式等から、異論もある。邸宅建築や宮殿建築は、宗教建築に比べて残りにくく、改変も多く見られる。加えて、住宅様式のカーアと宗教建築に使われた4イーワーン式は類似した構成であり、相互に影響を及ぼしているため、カーアとイーワーンの関係は複雑化している。当建築の建設時期解明は今後の課題である。
欧米語表記:The Kaaba アラビア語転写表記:al-Ka'aba 別称:カアバ
アラビア半島のメッカにあるイスラームの最も神聖な神殿。カーバとは「立方体」を意味し、石造の立方体の形をした建物になっている。「神の館(バイト・アッラー)」とも呼ばれる。イスラーム期以前から聖域とみなされており、もともとは神々の偶像が内部に祀られていたが、イスラーム勢力による征服後に全て破壊された。カーバ神殿はそれを取り囲む聖モスクの中庭中央に位置し、大理石の基盤の上に長辺12メートル、短辺10メートル、高さ15メートルの大きさであり、その四隅はほぼ東西南北を向いている。平屋根は北西に向かって緩やかな勾配があり、雨樋に続いている。北東に向かう面が正面で、地上2メートルの部分に入口が設けられている。その左端、東角の地上1.5メートルのところにアブラハムが建立を行ったときに天使が運んできたとされる、巡礼者が接吻を行う聖なる黒石がはめ込まれている。外面は黒色の一枚の絹布(キスワ)で覆われ、巡礼の期間だけその下部が巻き上げられる。
欧米語表記:Qasr Ablaq アラビア語転写表記:Qaṣr al-Ablaq
スルターン・ナースィル・ムハンマドによって1315年にカイロの城塞に建てられた宮殿で、スルターン・バイバルス1世が1266年にダマスクス郊外に建設した、カスル・アブラク(縞模様の宮殿)にちなんで命名されたという。現在は消失している。城塞に建設された宮殿に関しては、スルターン・カラーウーンが1286年に建築した大謁見広間(イーワーン・カビール)は、19世紀初頭までは現存していたため、ナポレオンの『エジプト誌』に描き残されている。その平面は大ドームをいただく広間を柱廊が取り巻く形式であった。1985年の発掘により、その近傍にマムルーク朝のカーアが発見され、柱の銘文からスルターン・アシュラフ・ハリールの宮殿であることが判明した。アブラク宮殿に関しては、これらの近傍にあり、城下を見下ろす4つの広間をもっていたという情報が残るのみである。
欧米語表記:Qasr ibn Wardan アラビア語転写表記:Qaṣr Ibn Wardān
シリアにある教会堂と城塞の遺構で、6世紀の中頃にユスティニアヌス帝の時代に、サーサーン朝との境域に創建された。ファサードは、茶灰色のレンガと黒い玄武岩(バサルト)を層状に積み重ねた大胆な縞模様となっている。軽いレンガと強い石という双方の利点を用いた構法であると同時に、アーチや梁等の色使いから、装飾的な意図も看取される。いわゆる三廊式の教会堂ではあるが、大アーチとドーム下部から身廊部分にはドームが架けられていたとされる。バシリカ式にドームを架けたタイプの教会堂の例としては、コンスタンティノープルのハギア・ソフィアがあげられる。
欧米語表記:Palermo Cathedral 別称:パレルモ大聖堂
シチリア島のパレルモにノルマン王国時代の1185年に建設された司教座教会(カテドラル)。元は、831年にビザンツ勢力に替わりシチリア支配をすることとなったムスリムが建設した大モスクであり、1072年にノルマン王国がそれを奪還し、教会堂として用いるようになった。15世紀に付設された入り口ポーチを支える円柱にはアラビア語でクルアーンを綴ったインスクリプションが残り、モスクの柱が転用されたことを示している。18世紀末の改修によって新古典主義の建物に改装されているが、アプス(東端部)外側の装飾には、ノルマン様式の交差アーチが残る。
欧米語表記:Duomo di Monreale 別称:モンレアーレ大聖堂
シチリアのパレルモ近郊のモンレアーレに1174-82年に建設された司教座教会(ドゥオーモ)。パレルモ大聖堂、チェファル大聖堂と並ぶノルマン教会堂建築の一つであり、当初の形態を最もよく残している。三廊式の教会堂の内部には、金色の地のガラス・モザイク、クロイスター(修道院中庭)の列柱廊(対の装飾的な大理石柱を使う)など、北アフリカやアンダルシアのイスラーム建築との共通点が散見される。ノルマン様式の教会堂は、三廊式を基本としているが、東の内陣部分を広く取り、3つのアプスを突出させることが特有で、その外観はイスラーム風の交差アーチで分節する。なお、パレルモのジーザ宮殿と王宮他を含めアラブ・ノルマン様式建造物群として世界遺産に登録され、パレルモ近郊の2つの大聖堂をも含まれる。
欧米語表記:Endowment Document アラビア語転写表記:waqfīya 別称:ワクフ文書
ある人物が寄進(ワクフ)を行うに際して、寄進対象となる施設・人・活動や、財源となる物件、その他様々な規定について記録された文書のこと。アラビア語ではワクフィーヤ(ワクフ設定文書)と言われる。
欧米語表記:Chapel of Krak des Chevaliers
シリアの十字軍の城塞の内部にある教会堂で、1142年から71年まで聖ヨハネ騎士団が占拠した時代にさかのぼる。1271年にマムルーク朝のスルターン・バイバルス1世が奪還し、教会からモスクに転用された。城塞の北部に位置し、東側にアプスを持ち、3部のトンネル・ヴォールトで覆われた細長い部屋である。モスクに改装されたときに、南壁に石造のミフラーブとミンバルが付設された。その方角は、教会堂は通例では東を向いて建てられるので、シリアではメッカの方角が南であったことに由来する。
欧米語表記:Taq Kisra, Iwan-I Khosrow 別称:ホスローの宮殿、ターク・キスラ
イラクのクテシフォンにあるサーサーン朝宮殿。巨大なアーチが開口し、間口25.5メートル、奥行43.5メートル、高さ37メートルの広間によって、ホスローのアーチあるいはホスローのイーワーンと呼ばれる。その建設年代は不明であり、3世紀あるいは6世紀中葉、末という3つの説がある。この広間は宮殿建築の一部であり、東に向かって開くイーワーン広間の南北に伸びる壁を備えていた。アーチを開口してトンネルヴォールトをいただくイーワーンの典型として知られ、中世のアラビア語文献にも比喩として登場するが、このサイズを超えるイーワーンは建設されていない。Cf.スルターン・ハサンの複合施設における、礼拝室のイーワーンは、間口12メートル、奥行25メートル、高さ26メートルである。
欧米語表記:Mausoleum of Sayyida Ruqaiyya アラビア語転写表記:Mashhad (Masjid) Sayyida Ruqayya
ファーティマ朝末期の墓建築。ルカイヤは第4代カリフ・アリーの娘で、ファーティマ朝期の1133年にズウェイラ門(同朝の宮殿都市の南門)から南の死者の町を貫く通り沿いに建設された。近傍には、シャジャル・ドゥッル廟など13世紀後半に建設された廟が多い。ドームをいただく墓室の両脇に細長い部屋をもち、キブラ軸手前の横長の前室という4室から構成される。前室は円柱を挟んだポーチとなり、前室の両脇、墓室および側室の5カ所にミフラーブを穿つ。ミフラーブはスタッコ装飾で、キール・アーチ(船底型のアーチのと放射状のリブが特徴的である。ドームも内外ともにリブ・ドームを用いる。
欧米語表記:Zisa (The Castello della Zisa)
パレルモに建設された12世紀のノルマン王国の宮殿建築で、アラブ・イスラーム建築の影響が顕著である。広大な庭園内に配された3階建の建物で、中央の主室は2層吹き抜けで、奥の斜め壁(シャディルヴァン)から水が流れ出して部屋を横切り、壁には棗椰子と孔雀等を描いたガラス・モザイクが挿入され、部屋の3方の凹みはムカルナスで飾られる。ちなみにジーザの名称は、アラビア語のダール・アズィザ(壮麗な場)に由来する。
欧米語表記:Citadel of Cairo/Citadel of Saladin アラビア語転写表記:Qal'at Ṣalāḥ al-Dịn al-Ayyūb bil-Qāhira (Qal'at al-Jabal) 別称:サラディンの城塞
アイユーブ朝のサラディンによって、ムカッタムの丘陵に建設された城塞。サラディンは、十字軍に備えてカーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)とフスタート(アムルのモスクを中心とする南の市街地)を包み込む市壁を計画するとともに、軍事的基地としての城塞を建設した。城塞は北と南からなるが、アイユーブ朝にさかのぼるのは北の城塞で、マムルーク朝期に南への拡張が進み、南に諸宮殿やスルターン・ナースィル・ムハンマドのモスクが建設された。オスマン朝末期には南に宮殿等の諸施設が並び、北は軍人が住む市街となっていた。ムハンマド・アリー朝に城塞としての改築が進み、南の囲いのマムルーク朝の宮殿を壊してムハンマド・アリー・モスクが建てられ、北の囲いは市街を一掃してハーレムとなった。
欧米語表記:Madrasa of Sultan al-Kamil アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Kāmilīya
アイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(サラディン)の甥で第3代スルターン・カーミルがバイナル・カスラインの北側に建設したカイロで初めての2イーワーン式のマドラサ。シーア派のファーティマ朝にとってかわったアイユーブ朝は、11世紀末からセルジューク朝で推進されたマドラサを建設し、教学の場とした。マドラサの建築形式として、ペルシアを起源とする4イーワーン式や2イーワーン式は、12世紀のダマスクスやアレッポなどに導入され、13世紀になってカイロにまでその影響が及んだ。2イーワーン式は中庭の軸上に対峙するイーワーンを配したものである。
欧米語表記:Madrasa al-Zahiriya (Damascus) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (Dimashq)
1277年にダマスクスで没したスルターン・バイバルス1世の廟を併設したマドラサ。ダマスクスのウマイヤ・モスクの近く、サラーフ・アッディーン(サラディン)の墓所の近くにあった住宅を宗教建築に改装したもので、バイバルスの息子バラカが1277年に着工した。完成前の1279年に、バラカも没し、父親とともにここに葬られた。工事が完成したのは、1281年スルターン・カラーウーンの治世においてのことであった。中庭は3つの部屋と柱廊からなり、墓室の壁には手の込んだ色石象嵌、ガラス・モザイクなどがふんだんに使われている。また入口の石造ムカルナスの下に3層のインスクリプションが刻まれ、建築家イブラヒム・イブン・ガナーイムの名が刻まれている。
欧米語表記:Madrasa of Sultan Zahir Baybars (Cairo) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (al-Qāhira)
1260年にスルターン位に即位したバイバルス(バイバルス1世)は、1262/3年にバイナル・カスラインに面して、アイユーブ朝のスルターン・カーミルのマドラサとスルターン・サーリフのマドラサの間に、マドラサを建設した。残念ながら19世紀末にほとんどの部分が撤去され、現在は南西隅の壁部分を残すのみである。マドラサに廟は併設されておらず、キブラ方向に長い中庭に4つの対面するイーワーンを配した4イーワーン式を採用した。
欧米語表記:Salihiyya Madrasa, Madrasa of Sultan Salih Negm al-Din アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ṣāliḥīya
アイユーブ朝第4代スルターン・サーリフが1243年に着工したマドラサ。父カーミルが建設したマドラサに隣接する。入口通廊の両側に、2イーワーン式の建築を2棟並べて、4イーワーンのマドラサとした。サーリフが1249年に死去したのちに、妻でありマムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥルがサーリフの墓を北西の隅に付設した。カイロにおける宗教複合施設として、寄進者の墓を含む最初の例となった。マムルーク朝期にはこのマドラサは4法学派の裁判所として機能し、サーリフの廟は王朝の儀式に使用された。現在は、廟、ミナレットのある入口、北側のマドラサの一部が残る。
欧米語表記:Mausoleum of Sultan Shajar al-Durr アラビア語転写表記:Ḍarīḥ Shajar al-Durr
アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの妻であり、マムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥッル(在位1250年)の墓建築で、夫の死後マムルーク朝の君主に3ヶ月だけ着位した。本来はマドラサ、ハンマーム、宮殿等の複合施設という記録があるが、現在は廟と後世のハンマームの遺構だけが残る。廟は正方形の部屋にドームを架けたキャノピー墓で、断面形がキール・アーチ(船底アーチ)となるドームが特徴的である。内部のミフラーブにはガラス・モザイクが用いられ、真珠の木という彼女の名前を表すかのように、金色の地に、アラベスクの植物模様の合間に真珠母貝の白い円が散りばめられている。
欧米語表記:Mosque of Sultan Nasir Muhammad (al-Mu'izz st.) アラビア語転写表記:Masjid wa Madrasa al-Sulṭān al-Nāṣir Muḥammad (bi-Shāri' al-Mu'izz lil-Dīn Allāh)
スルターン・キトブガーによって1294年に建設が始まり、スルターン・ナースィル・ムハンマドの時代に入った1303年に完成した廟付きのマドラサ。廟にはナースィル・ムハンマドの母アシュルーンと息子のアヌーク(1340年没)が葬られ、ナースィル・ムハンマド自身は父カラーウーンの廟に葬られた。廟のドームは現在も崩壊したままであり、平天井で塞がれている。マドラサは、4イーワーン式であり、礼拝室と向かい合うイーワーンは平天井、副軸上はトンネル・ヴォールトとなっている。ミナレットとマドラサ礼拝室にあるのミフラーブ、および礼拝室と対面するイーワーン奥部のスタッコ装飾が見事であり、特にミフラーブのコンチ内部の装飾はイル・ハーン朝のスタッコ細工と類似する。入口部分は、キトブガーが十字軍との戦いに遠征した際に、アッカーから持ち帰った教会堂の入口であり、ゴシック様式である。
欧米語表記:Complex of Sultan Barquq アラビア語転写表記:al-Majmū'at al-Sulṭān al-Ẓāhir Barqūq
チェルケス・マムルーク朝の開祖であるスルターン・バルクーク(在位1382–89, 1390–99)の廟を含む複合施設。バイナル・カスラインに面し、スルターン・ナースィル・ムハンマドの複合施設と隣接する形で建設された。建築家はシハーブ・アッディーン・アフマド・イブン・ムハンマド・トゥールーニーと記され、アミールのジャルカスィー・ハリーリーが監督を務めた。マドラサは4イーワーン式で、礼拝室は、カラーウーンのマドラサと同様に円柱で3廊に分割されている。円柱は側面に近い位置に並び、17.6メートル四方ある中央の部分は豊かな装飾の平らな天井で覆われる。他の3つのイーワーンはトンネル・ヴォールトで覆われている。一方、現在墓建築を覆うドームはレンガ造だが、本来は木造で、移行部は現在も木製である。建物の奥の西側には小室群があり、学生居室やスーフィーの居室に使われた。
欧米語表記:Khanqah of Sultan Faraj Ibn Barquq アラビア語転写表記:Madrasa wa Khānqāh al-Nāṣir Faraj b. Barqūq
スルターン・バルクークの息子であるスルターン・ファラジュの大規模な宗教複合施設で、カイロ城塞の東側に広がる墓地に建設された。東側の墓地には、14世紀半ば以後オスマン朝に至るまで多くの墓建築が建設された。この建築は、広大な中庭の周囲のキブラ側(南寄りの東)に多柱礼拝室、その両側に廟の大ドームを配する対称的なデザインとなっている。父のバルクークは、この複合施設内北側の墓室に葬られた。南側のドームには女性たちが葬られている。なお、中庭を囲む周廊の背後には居住施設としての小室が多数配されており、スーフィーたちの居室として用いられた。
欧米語表記:Cappella Palatina
パレルモのノルマン宮殿に1132年に併設された教会堂。ノルマン建築の教会堂に共通する三廊式で、東端部にドームを挿入して広くとる形式で、中央と両脇に半円形のアプス(凹部)をもつ。身廊の天井は木造のムカルナスで、曲面や星型を囲む帯状の部分にはクーフィー書体のアラビア語でインスクリプションが描かれている。床は、色石をモザイク状に敷き詰めており、ベイごとに幾何学模様で分節され、内陣部には円形の模様が使われ、腰壁も色石張りとなっている。ビザンティン建築との共通性は、ガラス・モザイクとその題材などがあげられるが、イスラーム建築との共通点も多い。
欧米語表記:Mausoleum of Fatima Khatun, Mausoleum of Umm Salih アラビア語転写表記:turbat Fāṭima Khātūn, turbat Umm al-Ṣāliḥ 別称:ウンム・サリーフ廟
1283年に創建された、スルターン・バイバルス1世の妻であるファーティマ・ハトゥン(1284年没)の廟。マドラサと共に建てられ、マドラサの入口部分とミナレットは現存している。廟は方形のドーム室であるが、通廊と前室をもつ。この廟と、スルターン・カラーウーンの廟(1284年)、アシュラフ・ハリール廟(1288年)はいずれもスルターン・カラーウーンが関与したとされるドームで、その外観に同様の八角形のドラム(ドームと基部をつなぐ部分)を持つ。このため、カラーウーン廟の復元の際にはハリール廟の外観が採用された。しかし、内部の移行部(基部の方形断面とドームの円形断面をつなぐ部分)は、それぞれ異なっている。3者に共通する点は円形のモチーフを多用する点で、特に前2者では2連アーチの上部に円形を設け、それらを囲むアーチというモチーフが共通する。このモチーフは、イベリア半島、南仏、イタリア半島のロマネスク建築との関連を示唆する。
欧米語表記:Mezquita (Mosque and Cathedral of Cordoba) アラビア語転写表記:Miskītā (Kātidurā'īya - Jami' Qurṭuba
一般的な用語としては、モスク(イスラーム教徒の礼拝所)を意味するスペイン語であるが、特に後ウマイヤ朝のコルドバの大モスクを指すこともある。コルドバの大モスクは、784年にアブドゥル・ラフマーン3世が着工し、その後1236年のコルドバ陥落まで、モスクとして度重なる増改築を重ねた。中でも10世紀後半のハカム2世の増築では、ガラス・モザイクでミフラーブの周辺が美しく飾られた。キリスト教会堂になってからも改築は続き、16世紀には多柱室の中に十字形の教会堂が挿入された。コルドバのカテドラルのようにキリスト教会堂に転用・改造されたものは限られ、多くはセビリアのカテドラルのように、モスクの敷地に新たな教会堂が建設された。
欧米語表記:Majid al-Nabawi, Mosque of the Prophet アラビア語転写表記:al-Masjid al-Nabawī (al-Ḥaram al-Nabawī, Masjid al-Nabī)
アラビア半島のメディナにある大モスク。622年に、預言者ムハンマドは故地メッカを追われ、イスラーム教徒の共同体を率いて、メッカからメディナに聖遷(ヒジュラ)を行った。メディナのムハンマドの家は、30メートル四方ほどの中庭の南北辺に棗椰子の柱を立てて屋根をかけた簡素なもので、共同体の拠り所となり、礼拝や様々な活動が行われた。ムハンマドの家は、ムハンマドの死後、預言者のモスクとなり、世界のモスクの原型となった。預言者の遺体は、このモスクの一室に葬られ、マムルーク朝後期のスルターン・ガウリーが1476年にドームを架けた。現在はサウード家による改築によって広大な大建築となっている。
欧米語表記:Sabil Kuttab of Ruqaiya Dudu アラビア語転写表記:Sabīl wa Kuttāb Ruqayya Dūdū
バダウィヤ・シャヒンが、娘であるルカイヤ・ドゥドゥ(1758年没)のために建設したサビール・クッターブ。施主の夫は、オスマン朝のアミールであったラドワーン・カトフダ・アルジュルフィで、娘の死去の4年前に逝去している。ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの南門(ズウェイラ門)から城塞の正門前広場に続く目抜き通りであるスーク・シラーハ(武器市場)に面している。このサビール・クッターブは、道路に沿ってU字型を描き、石浮彫、青・緑・白のタイル、木材の打ち抜き細工などが施された手の込んだ秀作である。2020年から修復工事が始まっている。