人名の一覧

  • アブドゥル・ラフマーン・カトフダー(1715-1776年)

    欧米語表記:‘Abd al-Rahman Katkhda アラビア語転写表記:al-Amīr 'Abd al-Raḥmān Katkhdā, ('Abd al-Raḥmān b. Ḥasan Jāwīsh al-Qāzdaghlī)

    カイロ生まれのアミール。父は当時オスマン朝エジプト州の実権を握っていた軍事集団カーズダグリーヤの領袖であった。彼も1740年に領袖に就任するが、すぐに失脚する。その後復権を果たすも、のちにオスマン朝に反旗を翻すアリー・ベイ(?-1773)との権力闘争に破れて、最終的にはメッカに亡命した。慈善事業に熱心であったことでも知られ、カイロ旧市街にサビール・クッターブを建設したほか、マンスーリヤやアズハル・モスクをはじめとするそれ以前に建てられた宗教施設への寄進や修復も行った。

  • カリフ・ムイッズ(在位953-75年)

    欧米語表記:al-Mu'izz lil-Din Allah (Fatimid Caliph) アラビア語転写表記:al-Mu'izz lil-Dīn Allāh, Abū Tamīm Ma'ad Mu'izz b. Manṣūr, al-Khalīfa al-Fāṭimī

    ファーティマ朝4代カリフ。北アフリカ一帯の征服を行い、969年にはエジプトも占領した。自身も973年にエジプトに新たに建設させた都カーヒラ(カイロ)へと移住して、東方地域への拡大、シーアの宣教活動の強化を図った。

  • クレスウェル

    欧米語表記:Keppel Archibald Cameron Creswell

    イギリスのイスラーム建築史学者(1879年—1974年)。工学を学び、第1次世界大戦後にイギリス陸軍航空隊に入りエジプトに赴任した。エジプト赴任中、精力的に中東のイスラーム建築を調査し、写真撮影を行い、建築図面を作成した。1931年フアード大学(現在のカイロ大学)に就任・教授職につき、1951年にはカイロ・アメリカン大学に移った。代表的な著作として、『初期イスラーム建築』2巻(第1巻: 1932年, 第2巻: 1940年)、『エジプトのイスラーム建築』2巻(第1巻: 1952年, 第2巻: 59年)がある。彼が残した貴重なフィルムや書籍は、様々なメディアを通して今なお利用され続けている。

  • スルターン・アーディル(在位1200-1218年)

    欧米語表記:Adil I (Ayyubd Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-'Ādil Sayf al-Dīn Abū Bakr Aḥmd b. Najm al-Dīn Ayyūb

    アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーン(サラディン)の弟で、第4代アイユーブ朝スルターン。シリア方面への遠征を頻繁に行なっていた兄に代わってエジプトにおける政務を行い、また統治に対して助言を行うなど一族の中でも特に信頼されていた。サラディンの死後、当初はサラディンの息子たちを補佐していたが、対立が深まり、最終的に自身がエジプトとダマスクスを支配下に置き、他の王族に対する優位を示すためにスルターン位に就くことを宣言した。

  • スルターン・アブー・バクル(在位1341年)

    欧米語表記:al-Masur Abu Bakr (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Abū Bakr b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn

    前期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマドの遺言によって即位するが、重臣との対立によって2ヶ月で失脚、上エジプトに流された後に殺害された。

  • スルターン・イーナール(在位1453-1461年)

    欧米語表記:al-Ashraf Inal (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Sayf al-Dīn Abū al-Naṣr Īnāl al-'Alā'ī

    後期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・バルクークに購入されて、彼の子飼いマムルークとなる。その後、バルスバーイの治世期の1428年にガザ総督に任命されたのを契機に、シリア各地の総督職を務め、1446年にはスルターンに次ぐ地位に就き、1453年のスルターン・ジャクマク死後の後継者争いに勝利して、スルターンとなった。彼の治世には、オスマン朝やアク・コユンル朝といった強大化する外部勢力への対応が問題となる一方で、内政は比較的安定していたと言われている。

  • スルターン・カラーウーン(在位1279-90年)

    欧米語表記:al-Manṣūr Qalāwūn (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Qalāwūn al-Ṣāliḥī

    前期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バイバルス1世の息子を退けて、自身がスルターンとなった。外部勢力との関係については、モンゴル軍に対しては専守防衛、十字軍に対しては積極的な攻勢を行なった。また、カイロのバイナル・カスラインに病院・マドラサ・廟からなる複合施設を建設した。

  • スルターン・カンスーフ・アルガウリー(在位1501–17年)

    欧米語表記:al-Ashraf Qansuh al-Ghuri (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Qānṣūh al-Ghawrī

    マムルーク朝の実質最後のスルターン(後期マムルーク朝第26代)。悪化した国家財政の再建、アナトリア東南部におけるオスマン朝、紅海・インド洋におけるポルトガルといった外敵への対処を行なった。しかし、ポルトガルには1509年に海戦で敗れたことによって、インド洋交易の主導権を奪われることとなった。さらには、1516年、オスマン朝に対応するためにスルターン自らシリア北部へ出陣したが、オスマン朝軍に敗れ、撤退途中に病死した。

  • スルターン・サーリフ(アイユーブ朝スルターン)(在位1240-49年)

    欧米語表記:al-Salih Najm al-Din (Ayyubid Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Najm al-Dīn Ayyūb

    アイユーブ朝第7代スルターン。即位に際して、アイユーブ家の中で内紛が起きたが、十字軍と同盟したアイユーブ家の王族に勝利して、エルサレムとダマスクスの占領に成功した。また1248年には、フランスのルイ9世がエジプトに侵攻して来たために出陣したが、その陣中で没した。治世を通じて、十字軍、他のアイユーブ家への対抗のために軍事力強化、特にマムルーク軍団の拡充に努め、そのマムルーク軍団がマムルーク朝創建の中核となった。

  • スルターン・サーリフ(マムルーク朝スルターン)(在位1351−54年)

    欧米語表記:al-Salih Salih (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Ṣalāḥ al-Dīn Ṣāliḥ b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn

    前期マムルーク朝第23代スルターン。アッサーリフ・サーリフとして知られる。スルターン・ナースィル・ムハンマドと有力アミールのタンキズ・アルフサーミーの娘クトゥルマリクの間に1337年に生まれる。有力アミールの権力闘争の結果、兄のスルターン・アンナースィル・ハサンが廃位され、スルターン位に就いた。有力アミールのシャイフー、サルギトシュ、ターズによって実権が握られていたが、ターズがサーリフの権威を利用し、他の二者を退けようとした結果、逆にシャイフーとサルギトミシュによりサーリフは廃位され、兄のハサンが復位し、ターズは失脚した。

  • スルターン・ナースィル・ムハンマド(在位1294-95, 1299-1309, 1310-41年)

    欧米語表記:al-Nasir Muhammad b, Qalawun (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Ṣulṭān al-Malik al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣaur Qalāwūn

    前期マムルーク朝のスルターン(第10,13,15代)で、スルターン・カラーウーンの息子。兄のスルターン・ハリール(第9代)の死後に幼少で擁立されたため、当初は権力基盤が弱かったが、3回目の即位後は政敵を排除して、安定した治世を実現した。対外的には、対モンゴル関係を安定化させ、対内的には全領土を対象とした検地(ナースィル検地:1313−25年)を実施し、イクター制をとおした軍人による農村支配体制を整備し、独裁的な権力を握るにいたった。対外的な安定と、紅海と地中海をむすぶ通商路の安定により、後期を含めたマムルーク朝時代の最盛期が現出した。

  • スルターン・バイバルス2世(在位1309-10年)

    欧米語表記:al-Muzaffar Baybars (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Muẓẓafar Rukn al-Dīn Baybars al-Jāshankīr

    前期マムルーク朝第14代スルターン。カラーウーンのマムルーク出身のアミールで、カラーウーン息子のスルターン・ナースィル・ムハンマドの退位に伴ってスルターンに即位した。しかし、即位後は他のアミールとの権力闘争に追われ、さらに復権を果たしたナースィル・ムハンマドがシリアを制圧したことを契機に逃亡した。彼がカイロに建設したスーフィーの修道場である、バイバルスのハーンカーが有名である。

  • スルターン・ハサン(在位1347–51, 1354–61年)

    欧米語表記:al-Nasir Hasan b. al-Nasir Muhammad (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Nāṣir Badr al-Dīn al-Ḥasan b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn

    前期マムルーク朝第22、24代スルターン。ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマド没後に弱体化したスルターンの権力の回復を目指して、マムルーク以外の勢力の登用を行なったが、その途中で殺害された。マムルーク朝期最大の建築物であるスルターン・ハサンの複合施設を創建した。

  • スルターン・バルクーク(在位1382–89, 1390–99年)

    欧米語表記:al-Zahir Barququ (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ẓāhir Sayf al-Dīn Barqūq

    後期マムルーク朝の初代スルターン。カラーウーンとナースィル・ムハンマドの子孫によるスルターン位の継承を終焉させ、自らスルターンに即位した。当時問題となっていた財政問題の解決のために、スルターンの直轄財源の拡充などをおこない、支配体制の改革を行った。

  • スルターン・ムアイヤド・シャイフ(在位1412–21年)

    欧米語表記:al-Mu'ayyad Shaykh (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Mu'ayyad Abū al-Naṣr Shaykh al-Maḥmūdī

    後期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バルクークによって購入されたマムルーク出身で、バルクークの息子であるスルターン・ファラジュ治世期の1400年にシリアのトリポリ総督に任命され、以後12年間シリア各地の総督職を歴任した。その後、他のアミールと結託してファラジュに反旗を翻し、勝利を納め、最終的に自身がスルターンに即位した。治世中は、シリア、アナトリア南東部などでの反乱の発生、食糧不足や疫病の発生といった問題への対応に追われた。

  • スルターン・ラージーン(在位1296-99年)

    欧米語表記:al-Mansur Lajin (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Ḥusām al-Dīn Lājīn al-Manṣūrī

    前期マムルーク朝第12代スルターン。支配基盤を固めるために、マムルーク朝初となる検地(フサーム検地)を行い、イクターの再配分を行なった。しかし、その再配分がスルターンとその直属の部下に偏っていたことが不満の種となり、反対勢力によって暗殺された。また、カイロのトゥールーン・モスクの大規模改修とワクフの設定を行なったことでも有名である。

  • ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)

    欧米語表記:Napoléon Bonaparte (Napoléon Ier)

    フランス第一帝政の皇帝。彼はイギリスとインドとの連絡を絶つことなどを目的として、1798年にエジプトへ上陸した。カイロを占領してシリア地域にも進軍したものの、本国での政情の急変を受けて彼自身は翌年フランスへ戻り、フランス軍によるエジプト占領も1801年には終了した。

  • マクリーズィー(1444年没)

    欧米語表記:al-Maqrizi, Taqi al-Din Abu al-Abbas Ahmad b. 'Ali b. 'Abd al-Qadir b. Muhammad アラビア語転写表記:al-Maqīizī, Taqī al-Dīn Abū al-'Abbās Aḥmad b. 'Alī b. 'Abd al-Qādir b. Muḥammad

    カイロ出身のウラマー(イスラーム知識人)であり、マムルーク朝期を代表する歴史家。マドラサの教授職やムフタスィブ(市場監督官)といった役職を勤めたが、後半生は著作活動に集中した。彼の著作は、同時代に襲った飢餓、ペストの流行、政情不安といった社会情勢を記すだけでなく、それらの事象に対する批判・分析や解決策の提示を行なった点で特筆される。主要な著作にはエジプト誌を集成した『街区と遺跡の叙述による警告と省察の書(al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār bi-Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār)』(通称:マクリーズィーのエジプト誌 Khiṭaṭ al-Maqrīzī)や、年代記の『諸王朝知識の旅(Kitāb al-Sulūk li-Ma'arifa Duwal al-Mulūk)』などがある。

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