その他の用語一覧

  • 岩のドーム

    欧米語表記:Dome of the Rock アラビア語転写表記:Qubbat al-Ṣakhra

    エルサレムにある、預言者ムハンマドが昇天(ミーラージュ)をおこなった聖地に建てられたドーム建築。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地として位置づけられている、ユダヤ教、キリスト教の聖地でもあるエルサレムの聖域ハラム・シャリーフ(神殿の丘)の中央に位置し、ドームの内部には聖なる石を祀っている。

    出典:新イスラム事典、岩波イスラーム事典

  • ウマイヤ・モスク(ダマスクス)

    欧米語表記:Umayyad Mosque at Damasqus アラビア語転写表記:al-Jāmi' al-Umawī

    ウマイヤ朝の首都ダマスクスに8世紀初頭に建設された大モスク。現存するモスクの中では創建当初の形をよく保っていることから、最古のモスクともいわれる。古代ローマ時代のジュピター神殿、キリスト教公認以後のヨハネ大聖堂の敷地を利用した建築で、現在も周壁や柱に当時の部材が姿を見せる。円柱の使用やガラス・モザイクなど、古代地中海的な様式が強いモスクである。マムルーク朝期にも何度か修復がなされ、スルターン・ナースィル・ムハンマドのもとでシリア総督であったタンキズによって大規模な修復がなされている。

  • 『エジプト誌』(ナポレオンの)

    欧米語表記:Description de l'Égypte (Napoleon's) アラビア語転写表記:Waṣf Miṣr

    ナポレオンによるエジプト侵攻時に同行していた研究者による調査報告としてまとめられ、1809年から22年にかけてフランスで出版されたもの。エジプト学の発生を促したが、その後のオリエンタリズム(東方研究)の流れやエジプトを含むアラブ地域の植民地化にも大きな影響を与えた。

  • エルサレム

    欧米語表記:Jerusalem アラビア語転写表記:Bayt al-Maqdis; al-Quds 別称:イェルサレム

    ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教の聖地。イスラームにとってメッカ、メディナにならぶ第3の聖域。第2代正統カリフ・ウマルの時代の638年にアラブ・ムスリム軍により征服された。ユダヤ教の神殿があったとされるモリヤの丘を聖域ハラム・シャリーフとみなして、ウマル・モスク(岩のドーム)とアクサー・モスクを建設したため、アラビア語ではバイト・アルマクディス(聖なる家)またはクドゥス(聖域)と呼ばれる。

    出典:『新イスラム事典』

  • カーバ神殿

    欧米語表記:The Kaaba アラビア語転写表記:al-Ka'aba 別称:カアバ

    アラビア半島のメッカにあるイスラームの最も神聖な神殿。カーバとは「立方体」を意味し、石造の立方体の形をした建物になっている。「神の館(バイト・アッラー)」とも呼ばれる。イスラーム期以前から聖域とみなされており、もともとは神々の偶像が内部に祀られていたが、イスラーム勢力による征服後に全て破壊された。カーバ神殿はそれを取り囲む聖モスクの中庭中央に位置し、大理石の基盤の上に長辺12メートル、短辺10メートル、高さ15メートルの大きさであり、その四隅はほぼ東西南北を向いている。平屋根は北西に向かって緩やかな勾配があり、雨樋に続いている。北東に向かう面が正面で、地上2メートルの部分に入口が設けられている。その左端、東角の地上1.5メートルのところにアブラハムが建立を行ったときに天使が運んできたとされる、巡礼者が接吻を行う聖なる黒石がはめ込まれている。外面は黒色の一枚の絹布(キスワ)で覆われ、巡礼の期間だけその下部が巻き上げられる。

    出典:『新イスラム事典』 『岩波イスラーム辞典』

  • カスル・イブン・ワルダン

    欧米語表記:Qasr ibn Wardan アラビア語転写表記:Qaṣr Ibn Wardān

    シリアにある教会堂と城塞の遺構で、6世紀の中頃にユスティニアヌス帝の時代に、サーサーン朝との境域に創建された。ファサードは、茶灰色のレンガと黒い玄武岩(バサルト)を層状に積み重ねた大胆な縞模様となっている。軽いレンガと強い石という双方の利点を用いた構法であると同時に、アーチや梁等の色使いから、装飾的な意図も看取される。いわゆる三廊式の教会堂ではあるが、大アーチとドーム下部から身廊部分にはドームが架けられていたとされる。バシリカ式にドームを架けたタイプの教会堂の例としては、コンスタンティノープルのハギア・ソフィアがあげられる。

  • カテドラル(パレルモの)

    欧米語表記:Palermo Cathedral 別称:パレルモ大聖堂

    シチリア島のパレルモにノルマン王国時代の1185年に建設された司教座教会(カテドラル)。元は、831年にビザンツ勢力に替わりシチリア支配をすることとなったムスリムが建設した大モスクであり、1072年にノルマン王国がそれを奪還し、教会堂として用いるようになった。15世紀に付設された入り口ポーチを支える円柱にはアラビア語でクルアーンを綴ったインスクリプションが残り、モスクの柱が転用されたことを示している。18世紀末の改修によって新古典主義の建物に改装されているが、アプス(東端部)外側の装飾には、ノルマン様式の交差アーチが残る。

  • カテドラル(モンレアーレの)

    欧米語表記:Duomo di Monreale 別称:モンレアーレ大聖堂

    シチリアのパレルモ近郊のモンレアーレに1174-82年に建設された司教座教会(ドゥオーモ)。パレルモ大聖堂、チェファル大聖堂と並ぶノルマン教会堂建築の一つであり、当初の形態を最もよく残している。三廊式の教会堂の内部には、金色の地のガラス・モザイク、クロイスター(修道院中庭)の列柱廊(対の装飾的な大理石柱を使う)など、北アフリカやアンダルシアのイスラーム建築との共通点が散見される。ノルマン様式の教会堂は、三廊式を基本としているが、東の内陣部分を広く取り、3つのアプスを突出させることが特有で、その外観はイスラーム風の交差アーチで分節する。なお、パレルモのジーザ宮殿と王宮他を含めアラブ・ノルマン様式建造物群として世界遺産に登録され、パレルモ近郊の2つの大聖堂をも含まれる。

  • 寄進文書

    欧米語表記:Endowment Document アラビア語転写表記:waqfīya 別称:ワクフ文書

    ある人物が寄進(ワクフ)を行うに際して、寄進対象となる施設・人・活動や、財源となる物件、その他様々な規定について記録された文書のこと。アラビア語ではワクフィーヤ(ワクフ設定文書)と言われる。

  • クーフィー書体

    欧米語表記:Kufic Script アラビア語転写表記:Khaṭṭ Kūfī

    アラビア書道の書体の一つで、直線、直角や円から構成される幾何学的な書体。8世紀から9世紀にクルアーン写本に用いられ、その名はイラクの都市クーファにちなむ。

  • クテシフォンの宮殿

    欧米語表記:Taq Kisra, Iwan-I Khosrow 別称:ホスローの宮殿、ターク・キスラ

    イラクのクテシフォンにあるサーサーン朝宮殿。巨大なアーチが開口し、間口25.5メートル、奥行43.5メートル、高さ37メートルの広間によって、ホスローのアーチあるいはホスローのイーワーンと呼ばれる。その建設年代は不明であり、3世紀あるいは6世紀中葉、末という3つの説がある。この広間は宮殿建築の一部であり、東に向かって開くイーワーン広間の南北に伸びる壁を備えていた。アーチを開口してトンネルヴォールトをいただくイーワーンの典型として知られ、中世のアラビア語文献にも比喩として登場するが、このサイズを超えるイーワーンは建設されていない。Cf.スルターン・ハサンの複合施設における、礼拝室のイーワーンは、間口12メートル、奥行25メートル、高さ26メートルである。

  • クレスウェル

    欧米語表記:Keppel Archibald Cameron Creswell

    イギリスのイスラーム建築史学者(1879年—1974年)。工学を学び、第1次世界大戦後にイギリス陸軍航空隊に入りエジプトに赴任した。エジプト赴任中、精力的に中東のイスラーム建築を調査し、写真撮影を行い、建築図面を作成した。1931年フアード大学(現在のカイロ大学)に就任・教授職につき、1951年にはカイロ・アメリカン大学に移った。代表的な著作として、『初期イスラーム建築』2巻(第1巻: 1932年, 第2巻: 1940年)、『エジプトのイスラーム建築』2巻(第1巻: 1952年, 第2巻: 59年)がある。彼が残した貴重なフィルムや書籍は、様々なメディアを通して今なお利用され続けている。

  • サーサーン朝(224-651年)

    欧米語表記:Sasanid Dynasty 別称:ササン朝

    アルダシール1世がパルティアを滅ぼして建国。現在のイラン・イラクにあたる地域を中核の領土としながら、イスラーム化以前のアラビア半島に対しても影響力を行使した。王位争いによる弱体化の中、アラブ・ムスリム軍の侵攻を受けて滅亡した。しかし、その統治制度や文化はイスラーム勢力に取り込まれ、大きな影響を残した。

  • ザンギー朝(1127-1251年)

    欧米語表記:Zengid Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Zinkīya (al-Dawlat al-Atābikīya)

    ジャズィーラ(イラク北部)・シリアに勢力を広げた王朝。創設者のザンギーは、モスルを足がかりに、シリア北部にまで勢力を拡大した。彼の息子のヌール・アッディーンの時代には、シリアの統一と対十字軍戦争を行なった。また、当時部下であったサラーフ・アッディーン(サラディン)をエジプトに派遣した。ヌール・アッディーンの没後、ザンギー朝の領土の多くは、サラディンが建てたアイユーブ朝に吸収されていき、消滅した。

  • ジーサ宮殿

    欧米語表記:Zisa (The Castello della Zisa)

    パレルモに建設された12世紀のノルマン王国の宮殿建築で、アラブ・イスラーム建築の影響が顕著である。広大な庭園内に配された3階建の建物で、中央の主室は2層吹き抜けで、奥の斜め壁(シャディルヴァン)から水が流れ出して部屋を横切り、壁には棗椰子と孔雀等を描いたガラス・モザイクが挿入され、部屋の3方の凹みはムカルナスで飾られる。ちなみにジーザの名称は、アラビア語のダール・アズィザ(壮麗な場)に由来する。

  • 十字軍

    欧米語表記:Crusaders アラビア語転写表記:Ḥamalāt Ṣalībīya

    11世紀末から13世紀末まで断続的に行われた、西ヨーロッパ諸国による地中海東岸地域への遠征・植民活動。第1回十字軍(1096-99)では、聖地イェルサレムの奪還とシリアの地中海沿岸地域に領土を獲得することに成功した。しかし、イスラーム勢力からの反撃により徐々に領土を失っていき、1187年にはエルサレムを、1291年には最後の拠点のアッカーを失ったことで獲得した領土の全てを失った。この期間中、主にイタリア諸都市とシリア・エジプト地域との経済的・文化的交流が促進され、双方に影響を与えた。また、イスラーム勢力に対する軍事行動全般を、広義の十字軍とみなすことがある。

  • セルジューク朝(1038-1194年)

    欧米語表記:Seljuk Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Saljūqīya

    10世紀後半にイスラームへ改宗したトルコ系遊牧民によって建てられた王朝。故地である中央アジアから、他の王朝を破りながら西進を行なった。その後、トゥグリル・ベクは1055年にバグダードに入城して、アッバース朝カリフより史上初めて「スルターン」の称号を受け、東方イスラーム世界における支配者として公認された。セルジューク朝ではスンナ派振興政策が行われ、各地にマドラサ(ニザーミーヤ学院)が建設された。しかし、マリク・シャー没後には、後継者を巡って激しい内紛が起きるようになり、王朝の領土は分裂した。サンジャルの時代に一時再統一されたが、再び分裂しオグズやホラズム・シャー朝により滅ぼされた。

  • ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)

    欧米語表記:Napoléon Bonaparte (Napoléon Ier)

    フランス第一帝政の皇帝。彼はイギリスとインドとの連絡を絶つことなどを目的として、1798年にエジプトへ上陸した。カイロを占領してシリア地域にも進軍したものの、本国での政情の急変を受けて彼自身は翌年フランスへ戻り、フランス軍によるエジプト占領も1801年には終了した。

  • ハーンカー

    欧米語表記:Khanqa アラビア語転写表記:Khānqāh

    スーフィーのための施設・建築物の名称。ペルシア語起源の言葉で、元々は中央アジアで使われていたで用いられていたが、セルジューク朝の西方進出に伴ってエジプト・シリアでも使われるようになった。カイロでは、特に有力者・スルターンが建設した大規模なスーフィー向けの修道場をハーンカーと呼び、より小規模な修道場はザーウィヤなどと呼ばれた。

  • パラティーナ礼拝堂

    欧米語表記:Cappella Palatina

    パレルモのノルマン宮殿に1132年に併設された教会堂。ノルマン建築の教会堂に共通する三廊式で、東端部にドームを挿入して広くとる形式で、中央と両脇に半円形のアプス(凹部)をもつ。身廊の天井は木造のムカルナスで、曲面や星型を囲む帯状の部分にはクーフィー書体のアラビア語でインスクリプションが描かれている。床は、色石をモザイク状に敷き詰めており、ベイごとに幾何学模様で分節され、内陣部には円形の模様が使われ、腰壁も色石張りとなっている。ビザンティン建築との共通性は、ガラス・モザイクとその題材などがあげられるが、イスラーム建築との共通点も多い。

  • ヒエログリフ

    欧米語表記:Hieroglyph

    古代エジプトの文字の一種で、建築物などに刻まれた。マムルーク朝期のエジプトでは、モスク等の建物の正面扉口の下の敷石にヒエログリフが刻まれた石を用い、上の楣(まぐさ)石に数色の大理石を組み合わせるなど装飾的な石を用いた例が散見される。

  • ムイッズ通り

    欧米語表記:Mu'izz street アラビア語転写表記:shāri' al-Mu'izz lil-Dīn Allāh

    カイロ旧市街の北の門であるフトゥーフ門からアズハル通りに至るまで、カイロ旧市街を南北に貫く約1キロメートルの通り。この通りには、ファーティマ朝カリフの東宮殿・西宮殿と、その間に広がる中央広場があった。この広場は、「2つの王宮の間」という意味のアラビア語で「バイナル・カスライン」と呼ばれた。その後、ファーティマ朝王宮の跡地には、アイユーブ朝、マムルーク朝期を通じてスルターンや有力者によって多くの宗教施設が建設され、中央を南北に貫く通り(現在のムイッズ通りの一部)も整備されて、現在に至っている。

  • メスキータ

    欧米語表記:Mezquita (Mosque and Cathedral of Cordoba) アラビア語転写表記:Miskītā (Kātidurā'īya - Jami' Qurṭuba

    一般的な用語としては、モスク(イスラーム教徒の礼拝所)を意味するスペイン語であるが、特に後ウマイヤ朝のコルドバの大モスクを指すこともある。コルドバの大モスクは、784年にアブドゥル・ラフマーン3世が着工し、その後1236年のコルドバ陥落まで、モスクとして度重なる増改築を重ねた。中でも10世紀後半のハカム2世の増築では、ガラス・モザイクでミフラーブの周辺が美しく飾られた。キリスト教会堂になってからも改築は続き、16世紀には多柱室の中に十字形の教会堂が挿入された。コルドバのカテドラルのようにキリスト教会堂に転用・改造されたものは限られ、多くはセビリアのカテドラルのように、モスクの敷地に新たな教会堂が建設された。

  • メッカ

    欧米語表記:Mecca アラビア語転写表記:Makka 別称:マッカ

    アラビア半島西部にある預言者ムハンマドの出身地であり、イスラーム第1の聖地。イスラーム誕生以前は、中継貿易によって繁栄した商都であった。イスラーム勢力による占領後、カーバ神殿にあった偶像は破壊されて、イスラームの聖域に変えられた。メッカへの巡礼は、イスラーム教徒の内その能力があるもの全員に課された義務となっている。

  • 預言者のモスク

    欧米語表記:Majid al-Nabawi, Mosque of the Prophet アラビア語転写表記:al-Masjid al-Nabawī (al-Ḥaram al-Nabawī, Masjid al-Nabī)

    アラビア半島のメディナにある大モスク。622年に、預言者ムハンマドは故地メッカを追われ、イスラーム教徒の共同体を率いて、メッカからメディナに聖遷(ヒジュラ)を行った。メディナのムハンマドの家は、30メートル四方ほどの中庭の南北辺に棗椰子の柱を立てて屋根をかけた簡素なもので、共同体の拠り所となり、礼拝や様々な活動が行われた。ムハンマドの家は、ムハンマドの死後、預言者のモスクとなり、世界のモスクの原型となった。預言者の遺体は、このモスクの一室に葬られ、マムルーク朝後期のスルターン・ガウリーが1476年にドームを架けた。現在はサウード家による改築によって広大な大建築となっている。

  • ローダ島

    欧米語表記:Roda Island アラビア語転写表記:Jazīrat al-Rawḍa

    カイロ中心部のナイル川にある島。島の最南端には、ナイロメーター(ミクヤース・アンニール)があり、エジプトの農業にとって重要なナイル川の増減水の測量を行なっていた。また、アイユーブ朝末期には、この島にマムルーク軍団の兵舎が置かれたが、この兵舎出身のマムルーク軍団(バフリーヤ軍団)が、アイユーブ朝からマムルーク朝への政権移行の際の中核となり、バフリー・マムルーク朝(前期マムルーク朝)を建設した。

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