アラビア文字風装飾からみるビザンティン建築におけるイスラームの影響

2021年 04月01日

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ビザンティン建築とは、一般にローマ帝国の首都がコンスタンティノープルへ移ってからその滅亡までの1100年以上にわたる建築をさす。長い年月の中で全く同じ建築が作られたわけではないので、イスラームの勃興以前を初期(7世紀まで)、イスラーム勃興からイコノクラスム1までを変革期(7〜9世紀)、イコノクラスムから第四次十字軍によるコンスタンティノープル陥落までを中期(9〜12世紀)、コンスタンティノープル再征服以降オスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落までを後期(13〜15世紀)とするのが通例である。そして、初期の建築がローマ建築の延長線上と見做されるのに対し、遺構の殆ど現存しない変革期を経た中期以降に独自の建築的特質をもつようになったとされる2。変革期以降のビザンティン帝国では常にイスラーム勢力と対峙し続けたわけだから、当然ながら建築にもイスラームの影響がみられるようになる。ここでは、イスラームとの戦争で劣勢だったビザンティン帝国が徐々に国力を増強させて攻勢へと回る時期、すなわち変革期から中期のビザンティン建築におけるイスラームの影響をみていこうかと思う。

1 イコノクラスムとは、726年から843年までビザンティン帝国内で巻き起こったキリストや聖母あるいは聖人を描いたイコンが偶像崇拝にあたるのではないかという神学的論争である。聖像破壊論争ともいう。
2 Mango, 1978: 9。こういった特徴のため、初期の時代を初期キリスト教建築と呼び、ビザンティン建築自体は中期と後期とする呼び方もある。

ビザンティン建築へのイスラームの影響を示す事例として、イコノクラスムをすすめた最後の皇帝であるテオフィロス帝が建てたブリアス宮殿がよく知られる。これは830年にアッバース朝の首都バグダードでアラブ人の建築の壮麗さに感銘を受けたテオフィロス帝の使節が、帰還後テオフィロス帝にアラブのような宮殿を創建することを進言し、受け入れたテオフィロス帝がコンスタンティノープルのアジア側対岸にあったブリアスに建てたという宮殿である。この宮殿は、皇帝の寝室に隣接して礼拝室を設け、中庭に三葉形の教会堂を設けたこと以外は、アラブの宮殿と全く同じだったという3。ただしその遺構が全く見つかっていないために4、当時のビザンティンの人々がどのようにイスラームの美術・建築を受容していたのかは、残念ながら判別しがたい。とはいえ史料での言及や現存する遺構を見る限り、イスラームの建築をそっくりそのまま持ってこようとするブリアス宮殿の事例はむしろ例外的だったようであり、ビザンティン建築においては装飾面にこそイスラーム的な要素を窺うことができる。例えば、10〜12世紀にエジプトを支配したファーティマ朝の陶碗は、主にペロポネソス南部の教会堂では外壁装飾として使用されたし、この時期にはアラビア文字のような装飾を建物に施すことも流行した。

3 Mango, 1986: 160.
4 かつてイスタンブールのアジア側にあるクチュクヤルの遺構がブリアス宮殿と比定されていたが、実際には修道院だった可能性が高く、ブリアス宮殿の場所は不明である。See: Ricci, 2008.

こういった装飾方法は、アラビア文字の古い書体であるクーフィー体、もしくはクーフィー体に限らずアラビア文字を模した文様であり5、多くはアラビア語としては意味を為さない6。しかし、ペロポネソス半島からイタリア半島にかけてのかなり広い地域において確認され、教会堂の様々な場所にこの装飾が施された。中でも現在のギリシア共和国の中部、首都アテネから北西へ100km程の場所に位置するオシオス・ルカス修道院の二つの教会堂は、精緻な装飾を残す事例であるのみならず、ビザンティン帝国とイスラームの関係の変遷に伴って、二つの教会堂にみられるアラビア文字をモチーフとした文様が異なる解釈をされている事例でもある。そこで、この修道院をもとに、アラビア文字風の装飾とその解釈法についてみていこうかと思う。

5 クーフィー体はアラビア文字の書法の一つで最も古いものであり、角張った直線形の字体である点が特徴としてあげられる。このクーフィー体を模した文様ということでビザンティン建築ではPseud-KuficないしKufesqueの語が用いられてきたが、クーフィー体以外の書体のアラビア文字を模した文様もしばしばみられることから近年ではよりゼネラルに擬アラビア文字(Pseud-Arabic)という言葉が用いられるようになってきている。Cf. Walker, 2015.
6 アラビア語で神を意味する語(アッラーフ: الله )のように装飾がほどこされていることもあるが、どこまで語の意味を認識していたかは不明である。

オシオス・ルカス修道院は、9世紀末から10世紀前半を生きたオシオス(福者)・ルカスに献ぜられた修道院である。もともとこの場所は、この地方出身のオシオス・ルカスが晩年を過ごした庵であり、その死後記念墓を経て修道院となった。修道院となった後にも、その場所には、病気治癒の奇跡で名高いオシオス・ルカスを慕う巡礼者で賑わったという。修道院は二つの教会堂から構成され、北側に位置するのが960年頃に創建されたと考えられるパナギア(聖母)教会堂(写真1)であり、その南側に位置するのが1040年代に創建されたと考えられる修道院の主教会堂であるカトリコンである(写真2)7。いずれの教会堂もドームを有するが、パナギア教会堂が内接十字とよばれる典型的なこの時代の教会堂の形式であり、そのドームも標準的な大きさ(約3.5m)であるのに対し、カトリコンのドームは9mにおよぶこの時代の物としてはかなり巨大なものであり、ドームを架けるのにスクィンチを用いた珍しいタイプのものである(断面アイソメ図)8

7 建立の時期を示す史料等は存在していないため、両教会堂の正確な創建年代に関しては諸説ある。両教会堂の創建時期について、最も蓋然性が高そうな推測を行っているのはブーラ、およびハジダキスとイコノミデスで、それぞれパナギア教会堂を961年以降の建立、カトリコンを1011年の建立され、カトリコン内部の装飾を1048年以降に施されたものとしている。Cf. Boura, 1980; Chatzidakis, 1969; Oikonomides, 1992.
8 ビザンティン建築では、矩形平面にドームを架ける教会堂が出現した最初期の5世紀頃にスクィンチが何例か確認されている(写真3)。しかし、6世紀以降ではコンスタンティノープルのアヤ・ソフィアの教会堂に代表されるようなペンデンティヴを用いるのが一般的となった(写真4)その後、11世紀になると突如としてスクィンチを使用する教会堂が現在のギリシアで再びみられるようになった(写真6)。

写真1:オシオス・ルカス修道院パナギア教会堂東側外観
写真2:オシオス・ルカス修道院カトリコン東側外観
断面アイソメ図
出典:Schultz, Robert Weir, and Sidney Howard Barnsley. The Monastery of Saint Luke of Stris, in Phocis, and the Dependent Monastery of Saint Nicolas in the Fields, near Skripou, in Boeotia. London: Macmillan, 1901. Plate. 4.
写真3:クズル・キリセのスクィンチ架構(トルコ共和国、6世紀)
写真4:ハギア・ソフィアのペンデンティヴ架構(トルコ共和国、6世紀)
写真5:パナギア教会堂の窓周辺の装飾
写真6:カトリコンのドーム見上げ写真、左下のスクィンチに描かれた神殿奉献とその隣に描かれた聖プロコピウスと聖ディミトリウスの楯にアラビア文字風の文様が描かれている。

10世紀のパナギア教会堂の外壁は、矩形に整形された石(切石)を厚いモルタル目地で積んでおり、この目地に薄い煉瓦を縦横に挿入することでそれぞれの切石を囲む、クロワゾネ積みと呼ばれる技法で構成されている。上の方にいくと、45度回転させた煉瓦の小口隅部が連続する軒蛇腹を幾層にも挿入し、さらにクロワゾネを構成する煉瓦も単に石を囲むだけでなく、煉瓦片を用いて、アラビア文字のような文様をつくっている(写真5)。教会堂の中心には一際高くなるようにドームが配置され、ドーム下の縦長の窓の周囲には装飾の施された大理石がはめ込まれている(写真2)。11世紀のカトリコンでも、石材を煉瓦が囲っており、パナギア教会堂ほど精緻なものではないものの窓枠などの周囲を中心に軒蛇腹が施されている(写真3)。パナギア教会堂では、残念なことに内部に施されていたであろう壁画はほぼ全て失われてしまっているが、カトリコンではかなりの割合のモザイクや壁画が当時のまま残されており、当修道院にみられる装飾は中期のビザンティン建築の中でも最も良質なものの一つと言って良いだろう。

オシオス・ルカスの修道院にみられるアラビア文字に似た文様は、外壁装飾以外にも教会堂内部の壁画やモザイク、さらには聖域とそれ以外の場所とを分ける障壁(テンプロンと呼ばれる)にもみられるものであるが、いずれもアラビア語に似た記号に過ぎず、意味をなす言葉にはなっていない。アラビア文字を建物に刻むことはイスラーム建築ではしばしばみられた現象であり、オシオス・ルカス修道院にみられるような葉っぱのように湾曲した字体は、特に北アフリカのファーティマ朝やそれに先立つアグラブ朝で9世紀頃から盛んにみられた9。このパナギア教会堂を創建される960年頃に先立って、ビザンティン帝国は北アフリカのイスラーム王朝との外交や貿易の関係を深めていた。10世紀半ば頃のコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスやロマノス1世レカペノスといったビザンティン皇帝の時代には、北アフリカのファーティマ朝との幾度にもわたる外交交渉や同じく北アフリカのイフシード朝への使節団の派遣が行われていた。さらにエジプトのイスラーム王朝と密接な関係のあったクレタ島のイスラーム政権を打ち破り、ビザンティン帝国がクレタ島を奪還したのが961年であった。こういった北アフリカを中心としたイスラーム王朝との交流の中で、ビザンティン帝国はアラビア文字を自身の建築に(例えそれが実際には読めないものであったとしても)取り入れていったのだと考えられている。

9 Bloom, 2007: 29, 54.など.

一方で、オシオス・ルカス修道院は、こういったアラビア文字を模した装飾が施された事例の中では最も早い時期のビザンティン建築であり、その量も同時代のものに比べて多い。なぜオシオス・ルカス修道院にてイスラーム由来の装飾が多く用いられたのだろうか。この件についてアリシア・ウォーカーが非常に興味深い説を唱えている10。彼女によれば、北側のパナギア教会堂の外壁に施されたアラビア文字を模した装飾は、961年にビザンティン帝国がクレタをイスラーム勢力から奪還したというキリスト教の勝利と、それを予言したオシオス・ルカスの奇跡を想起させるものであるという。オシオス・ルカス修道院には病気治癒の奇跡ゆえに多くの巡礼者が訪れていたが、彼の聖人伝は生前のルカスがむしろ予言者として名高かったことを伝えている11。その中でもルカスの名を有名にしたのがイスラーム勢力圏にあったクレタをビザンティン帝国が最征服するという予言であり、ルカスの死後間もなく実際に成就された。オシオス・ルカスへの信仰は特にギリシアの中部で盛んであり、その要因として10世紀のこの地域が絶えずイスラーム勢力に脅かされていたからとされる。このような状況を転換させたのが961年のクレタ征服であった。そのためパナギアの教会堂はルカスの予言が成就されたことを顕彰して建立されたと解釈する研究者も多い12。すなわちパナギア教会堂は、キリスト教徒によるイスラーム教徒への勝利としてのクレタ島征服を想起させる施設としての側面を有していたのである。

10 Walker, 2015: 102–109.
11 Connor and Connor, 1994: ch. 23–4, 30, 44, 59, 60, 62, 64.
12 Walker, 2015; Boura, 1980; Connor, 1992など.

また、クレタを征服した際にビザンティン軍は、多くの財宝の他にイスラーム勢力の鎧やヘルメットなども戦利品として獲得したことを当時の史料は記している13。こういった兵装に広くアラビア文字が書かれていたことこれまでにも指摘されており14、戦利品を通じて、アラビア文字(のようなもの)を刻むことがイスラーム勢力に勝利した事実をも表象するようになったと考えられている。さらにビザンティンやブルガリアなどの東方正教を奉ずる文化圏では、外壁に外国語(ビザンティンであればギリシア語以外の言語、ブルガリアであればブルガリア語以外の言語)を刻む行為とは刻まれた言語の文字を隷属化し再解釈することであり、このことを通じて刻まれた言語の文化を貶める意図を持っていた可能性が指摘されている15。従ってビザンティン側のイスラーム側に対する軍事的な優位性に伴ってこういった異国の言葉であるアラビア文字(に似た模様)を教会堂に施すようになった可能性が考えられるのである。

13 Talbot and Sullivan, 2005: 81.
14 Mohamed, 2008には、アラビア文字が描かれたイスラーム勢力の兵装が紹介されている(cat. nos. 7, 68–70, 87, 90–91, 104, 232)。また10世紀に編纂された続テオファネス年代記には、838年に小アジアを責めてきたイスラーム軍の楯にアラビア文字が書かれていたことが報告されている。
15 Papalexandrou, 2003: 72.

以上を総合すると、パナギアの教会堂にみられるアラビア文字風の装飾とは、オシオス・ルカスによるクレタ再征服の予言成就と(クレタ島において)キリスト教がイスラーム教に勝利した事実を想起させるものとして解釈することが可能になる。修道院に訪れる巡礼者のうちアラビア文字が読めるものは殆どいなかったであろうし、それが実際に文章として意味を為す必要もなかった。聖者の遺徳を偲ぶ巡礼者に、聖者の奇跡とキリスト教のイスラーム勢力に対する勝利を想起させれば十分であり、そのために修道院に来た巡礼者の目にまず入ることとなるパナギア教会堂の外壁に、多くのアラビア文字文様が刻まれたのである。

他方でカトリコンの教会堂にみられるアラビア文字のような装飾はより限定的である(写真6)。地下のクリプト部分にいくつかみられる他は、ドーム下のスクィンチに描かれた神殿奉献の場面(写真7)とその左右に描かれた軍人聖人(写真8)にみられるものの、それ以外のモザイク画や外壁にはみられない。神殿奉献とは、ユダヤの律法に従って生後まもないキリストをユダヤ教の神殿へ捧げる場面を描いたものであり、中央で聖母マリアからキリストを受け取ろうとする祭司シメオンの背後に描かれる白いキボリウム(祭壇や玉座の上を覆う四本の柱で支えられた屋根状のもののこと)に金色でアラビア文字のような装飾がみられる。神殿奉献の両脇に描かれた二人の軍人聖人、聖ディミトリオスと聖プロコピオスは共にその左手に楯を持つが、その中央にはキボリウムに描かれたものと同じ文様がそれぞれ黒色と金色で描かれている。

写真7:カトリコンに描かれた神殿奉献のモザイク、キリストとユダヤ教の祭司シメオンの後ろに描かれたキボリウムにアラビア文字風の文様が描かれていることがわかる。
写真8:聖ディミトリウスと楯の部分の拡大写真

ユダヤ教の神殿を表象としてキボリウムを用いるのは当時の一般的な手法であったので、問題はなぜここにアラビア文字のような記号が描かれているかである。これは、当時のキリスト教徒達がエルサレムの神殿の丘にある岩のドームやアクサーモスクといったイスラーム教徒によって創建された建物を古代ユダヤの神殿だと信じていたことに由来すると解釈されている16。例えば870年頃までには、キリスト教徒達は、岩のドームをイスラーム教徒によって建立された建物ではなく、ソロモンの神殿そのものであると信じるようになった(実際は691年にウマイヤ朝のカリフ、アブド・アルマリクによって建てられたものである)17。さらに巡礼者の中には、岩のドームこそがキリストの神殿奉献が行われたその神殿であると記録していたものもいた18。こういった当時の通念を反映して、神殿奉献のモザイクでは、アラビア文字がこの修道院と聖地との地理的な距離をあらわす記号として作用していたのである。

16 Walker, 2015: 109–117.
17 Berger, 2012: 55.
18 Krinsky, 1970: 6.

さらにカトリコンが建立された時代は、ファーティマ朝カリフのハーキムによって聖墳墓教会堂が破壊され(1009年)、キリスト教徒とイスラーム教徒の間にこれまで以上の確執が生じるようになった少し後のことである。聖墳墓教会堂自体は、カトリコンとほぼ時代を同じくして再建されたものの、キリスト教徒によるパレスチナ巡礼はその後も制限されていた。聖地への巡礼が制限される中で、オシオス・ルカスの修道院自体が巡礼の主要な対象地へと変貌し、これまで以上に多くの巡礼者が訪れるようになった。巡礼者達は、新たな巡礼先となったオシオス・ルカス修道院を通じて、自分達が足を踏み入れることのできない聖地に思いを寄せていた。そのような時勢の中で建立されたカトリコンでは、幾人も描かれた軍人聖人のうち、神殿奉献の脇の聖ディミトリオスと聖プロコピオスのみその楯にアラビア文字風の装飾が施されている。イスラーム教徒の支配下にある遠き聖地を思い起こさせるための記号としての装飾は、その両脇に控える軍人聖人にも描かれることによって、エルサレムを支配するイスラーム教徒へのさらなる勝利を主張し、十字軍ではないが、みる者も軍人聖人のように神の兵士であり教会の守護者となるよう訴えかける効果もあったのかもしれない。

さて、中期のビザンティン建築にみられるアラビア文字風の装飾が全てこのように解釈できるとは言えないが、単なる意匠的な好みを超えた意味付けがされていた可能性が十分にあったと考えられる。今回の記事ではビザンティン建築におけるイスラーム的な要素としてアラビア文字風の装飾に着目してきたわけだが、逆にビザンティンもイスラーム建築へ影響を与えてきた。その一例としてモザイク装飾などがあげられるが、この点に関しては記事を改めることとしたい。

*写真はいずれも筆者撮影。

参考文献

Pamela Berger, The Crescent on the Temple: The Dome of the Rock as Image of the Ancient Jewish Sanctuary , Leiden: Brill, 2012.

Jonathan M. Bloom, Arts of the City Victorious. Islamic Art and Architecture in Fatimid North Africa and Egypt, New Haven: Yale University Press, 2007.

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執筆者プロフィール

(Ryo Higuchi)

名古屋大学高等研究院/人文学研究科・特任助教

1987年生。2018年東京工業大学で学位所得後、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2021年より現職。
https://researchmap.jp/ryo_higuhi

ひとこと

西欧でもアジアでもない地域の人々に魅せられて、そこに残された建築を通じてこの地域の文化を何か知ろうとしてきました。現在はビザンティンを中心とした中世の地中海世界において、建設活動の主要な担い手であった工匠達がどのように経験的な知見や技能を継承・伝達し、どのように建物を作ってきたのか、そして彼らがどのようなことを考えていたのかということに関心を持ち、研究しています。

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