十字軍と地中海西部の建築

2021年 05月25日

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カイロにあるナースィル・ムハンマドの複合建築には、一風変わったゴシック様式の扉口が取り付けられている。この扉口は1291年のアッカー陥落のあと、マムルーク朝軍がキリスト教の教会堂から持ち去り、移築したものと考えられている1

1 Sterlin, 1997: 81-82, 88.

ナースィル・ムハンマドの複合建築

このように、部材を再利用する「スポリア」と呼ばれる行為2や、西洋の様式を模した部材の使用は、他の建築にも見られる。例えば、バイバルス2世のハーンカーの扉口に添えられた柱の柱頭彫刻には、西洋でよく用いられていたアカンサスの装飾が見られ、スルターン・ハサンの複合建築のファサードには、ゴシック様式のパネルがはめこまれている3。人々が十字軍に熱狂していた時代、それは異なる文化圏の交流が盛んに起きていた時代でもあった。もちろん、建築も例外ではない。通常、十字軍の時代における建築交流というと、地中海東部に建国された十字軍国家などがクローズアップされがちであるが、この記事では地中海沿岸の中でも西側、特にイベリア半島と南イタリアに注目してみよう。

2 この「スポリア(spolia)」という名称は、英語の「spoil」の語源となったラテン語に由来する。動詞が表す「剥ぎ取る」「略奪する」から転じて、「戦利品」という語義も含まれている。特に古代ローマの円柱や柱頭彫刻は、中世の建築へ盛んに再利用された。また建築部材だけでなく、教会堂の祭壇で使用されていた石材の机などもイスラーム世界で再利用されていた。中には、教会の鐘がシャンデリアとして生まれ変わった事例もある(Flood,2001)。
3 Behrens-Abouseif, 2004: 46-47.

バイバルス2世のハーンカー
スルターン・ハサンの複合建築

よく知られているように、イベリア半島では、イスラーム王朝の統治に対しキリスト教徒たちが領地を回復しようとする再征服活動「レコンキスタ」が8世紀後半から始まり、11世紀以降その勢いを強めていた。通常の十字軍は、イスラーム教徒の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するための軍事遠征として知られている。しかし、聖ベルナールが第二次十字軍を呼びかける過程で、エルサレム以外の地でキリスト教世界にとって重要な戦いを行う人々もまた、エルサレムで戦う人々と同等の権利が獲得されることが認められ、レコンキスタも十字軍の一環として位置づけられた4。これを受けて、12世紀後半以降のイベリア半島では、戦う騎士たちを表現した彫刻や、キリスト教の勝利を祝福する壁画など、十字軍と関係する装飾が教会堂にたびたび現れるようになる5

4 櫻井, 2019: 39-42.
5 Gómez, 2011: 240-243.

また、エルサレムを目指したキリスト教徒たちは、聖地とそこに建てられた建築に実際に触れる機会を手にした6。例えば、イエス=キリストの遺体が埋葬され3日後に復活したとされる聖墳墓教会は、彼らの大きな崇敬の対象となっていた。その中でもアナスタシス・ロトンダと呼ばれた円形の建物を模範として、多くの教会堂が作られていく7。イベリア半島の事例としては、セゴビアのベラ・クルス教会やトレス・デル・リオの聖墳墓教会といった円形教会堂が挙げられる。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路沿いに位置するトレス・デル・リオの聖墳墓教会は、八角形平面の両端に、半円形のアプスと半円形の階段室がそれぞれ取り付けられている。八角形の部分には、スペイン南部のアンダルシア地方で発生したとされるアーチ・ネットを用いたドームが架けられている。各辺の中央から2本ずつリブが伸び、その根元には(消失してしまっているものもあるが)十二使徒の名前が記されている。さらに2本のリブの間には、格子の装飾が美しい小さな開口部があり、その上にはコルドバのメスキータで見られるような多弁形アーチと塔の彫刻が施されている。こうした装飾は、ヨハネの黙示録の中に登場する「天上のエルサレム」を意図した表現ではないかとも考えられている8。アンダルシア地方から技術が伝播したのか、東方の都市エルサレムを表現するための意図的に使用したのか、その経緯は不明であるが、いずれにせよここではイスラームの建築技術が空間を演出するための重要な要素として働いている(聖墳墓教会については、深掘り記事「十字軍が東地中海の建築にもたらしたもの」も参照)。

6 十字軍が始まる以前から、エルサレムに向かった巡礼者たちは聖墳墓教会から石片を持ち帰っていた。石は聖墳墓教会を象徴するものとして一種の聖遺物のように扱われていた。11世紀フランスにおけるこうした事例については、Bartal, 2018を参照。
7 エルサレムの聖墳墓教会を模した教会堂は5世紀から17世紀にかけて建設されている(Krautheimer, 1942: 3)。
「模した」と一口に言ってもその形態は非常に様々である。ドイツではフルダの聖ミヒャエル教会、フランスではディジョンのサン=ベニーニュ修道院付属教会堂(現在は大聖堂)、イングランドではケンブリッジやノーサンプトンの聖墳墓教会などが一例として挙げられる。
8 Kim, 2015: 49-53.
ヨハネの黙示録には、天上のエルサレムに関する次のような記述がある。
「都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。」(21:12-14) また、中世イベリア半島北部の修道院で盛んに作成された〈ベアトゥス写本〉と呼ばれる一連の彩飾写本の中では、この天上のエルサレムの挿絵が描かれている。例えば、ニューヨークのモルガン・ライブラリー所蔵の写本が挙げられる(New York, Pierpont Morgan Library Ms.644, fol. 2)。

トレス・デル・リオの聖墳墓教会

一方、イスラーム教のモスクをキリスト教の教会堂へと転用する事例も見られる。トレドのサンタ・クルス教会は、元々1000年ごろに建設されたモスクであったが、1186年に聖ヨハネ騎士団の管理下におかれたことを契機として、13世紀前半にかけて改築された9。かつてのモスクの構造はそのままに、半円形のアプスを付け足しており、その接ぎ目は外観からはっきりと確認することができる10 。また、教会堂内部にもモスク時代を偲ばせる構造がそこかしこに残されている。ちょうどモスクの部分にあたる現在の身廊は、正方形平面を4本の柱によって9つの空間に分割した構成で、各柱同士は馬蹄形アーチがつなぐ。増築されたアプスにはフレスコ画による装飾が施され、キリストを中央に四福音書の記者が周りを取り囲むほか、預言者イザヤ、エレミヤ、スペインの聖人らが描かれている。絵画だけでなく、そこに添えられた聖句の内容もキリストを賛美する内容のものだ11。しかしその一方で、アプスの外側に架けられたアーチでは、アラビア語の碑文が教会堂を飾っている。トレドの都市は1085年には既にキリスト教徒によって奪還されており、約100年後に建設されたこの教会堂に、彼らはなぜアラビア語の碑文を装飾として使用したのだろうか。こうした装飾は、私たちにとって矛盾しているようにも思えるかもしれない。しかし、イスラーム文化と長らく共生してきたイベリア半島のキリスト教徒たちにとって、イスラームの建築技術や装飾はもはや自身の文化の一部として根付いていたのではないだろうか12

9 Raizman, 1999: 128.
10 南西に位置するモスク時代のファサードには、上部にレンガを用いた碑文が記されている。
11 フレスコ画と碑文の詳しい内容については、Gómez, 2011: 253-255を参照。
12 レコンキスタ後もイベリア半島に留まったイスラーム教徒の名称「ムデハル(Mudéjar)」から、イスラームの要素を取り入れて建設されたキリスト教建築は「ムデハル様式」と呼ばれている。

トレドのサンタ・クルス教会(外観/アプス/アプスのアーチを装飾するアラビア語の碑文)
外観写真の右側、馬蹄形アーチの開口部が3つ並んだ部分がかつてのモスクにあたる。

さて、「十字軍」というと、武器を持った騎士たちによる軍事遠征、というイメージが強いように思う。しかし一度だけ、戦闘ではなく交渉のみによって聖地エルサレムを取り戻した十字軍があった。1229年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝スルターン、カーミルの間で締結された条約である13。結果的にこの平和協定は長続きしなかったとはいえ、一つの聖地を共有する者同士が譲歩し、互いの宗教を尊重したその姿勢は、当時としては非常に画期的なものであった14。条約締結に漕ぎつけたこのフリードリヒ2世は、神聖ローマ皇帝であると同時に、わずか4歳で戴冠したシチリア王であった。王の異文化に対する柔軟な姿勢を育んだシチリアの文化とはどのようなものだったのだろうか。次は、シチリア王国におけるイスラムとヨーロッパの文化交流を建築的な側面から見ていきたい。

13 この条約の中では、エルサレムは皇帝の手に譲渡されるものの、イスラーム教徒の宗教施設はイスラーム教徒が管理し、自由な出入りと礼拝が認められたことや、スルターンを攻撃する者に対し(たとえそれがキリスト教徒であっても)皇帝は援助しないことなどが記されている。フリードリヒ2世と彼による無血十字軍については、NHK「文明の道」プロジェクト(他), 2004: 108-132, 154-172を参照。
14 フリードリヒ2世とカーミルによる条約は、キリスト教徒側とイスラーム側の双方から厳しい非難にさらされただけでなく、10年間という期限つきのものであったため、1239年にはカーミルの甥であるアル=ナーシルがエルサレムを奪い返す事態となった。しかし、2人の書簡等を通した交流は生涯続いたとされている(NHK「文明の道」プロジェクト(他), 2004: 129-130, 170)。

「この町のキリスト教徒の女たちは、ムスリム女性のような装いをしている。正しいアラビア語を流暢に話し、外衣で身を包み、ベールをつけている。前述のこの祭日には金糸で刺繍した絹の着物を着、優雅な衣服で身を包み、色付きのベールで顔を覆い、金糸で刺繍したスリッパを履いて出てきた。装飾品をつけた着飾り、ヘンナで化粧をし、香水をつけ、ムスリムの女性たちと全く同じような装いをして、全員が自分たちの所属する教会と言うより巣窟へと練り歩いた15。」

15 藤本, 池田, 1992: 338.

上の文章は、12世紀後半にイブン・ジュバイルがメッカ巡礼の旅の道中でシチリア島を訪れた際に書き記した旅行記からの引用である16。この短い一節を読むだけでも、当時のシチリア王国の独特な空気が少し伝わってくるのではないだろうか。
シチリア王国は、北からやってきたノルマン人がイタリア半島南部とシチリア島を征服したことによって建国された。

16 この『旅行記』は、ムワッヒド朝のグラナダ総督のもとで書記を務めていたイブン・ジュバイルが、1183年2月から1185年4月にかけて行った巡礼の旅の記録である

ノルマン人がはじめて南イタリアに足を踏み入れた11世紀前半、シチリア島は9世紀から続くイスラーム勢力の領土であり、イタリア半島南部はビザンツ帝国領に加えて、ビザンツ系とランゴバルト系の小さな侯国がいくつも乱立する状態であった17。よって、ノルマン人がこの地域一帯の制圧を終えたときには、彼らは自らの民族だけでなく、イスラーム系の人々とギリシャ系の人々を治める必要があった。即ち、征服以前に存在していたイスラームやビザンツの行政組織や軍隊、法制度を利用しながら統治するほうが彼らにとって都合がよかったのだ18

17 ノルマン=シチリア王国成立以前のイタリア半島およびシチリア島の政治的状況については、高山, 1999: 26-44を参照。
18 高山, 1999: 73-76.

初代シチリア王ルッジェーロ2世
ルッジェーロ2世のマント
ラクダやライオンといった東洋のモチーフに加え、クーフィー体の碑文が縁を飾る

さて、1072年にシチリア島のパレルモを陥落させたルッジェーロ2世は、旧支配者であるアラブ人たちが使用していた城塞に自らの居城、ノルマン王宮を構えた。その中でも1130年に創設された王宮礼拝堂は、ビザンツ・イスラーム・ラテンという3種類の美術が混在し、王の権威を喧伝するに十分な豪華さを誇っている。壁面やドームを埋め尽くすモザイク装飾は、黄金色を背景にイエス=キリストをはじめとして教父、預言者、使徒、四福音書の記者たち、殉教者といった様々な聖人や天使をモチーフとする。王の玉座が設けられた西側の壁面には、ペテロとパウロに挟まれた玉座のキリストが座している。また、床面や壁面には色石を使ったモザイク装飾が施され、ビザンツの技法を用いながらも、イスラームの幾何学の影響が見られる19。また、身廊に架けられた木製天井を見上げると、ムカルナスと星型が組み合わさったようなデザインになっており、ここにもイスラームの建設技術を見ることができる。

19 モザイク装飾については、本深掘り解説内の「コスマテスク装飾」を参照。

ノルマン王宮 王宮礼拝堂(アプス/西側壁面/身廊天井)

王宮内の有名な「ルッジェーロの間」には、王宮礼拝堂と同じくビザンツのモザイク画が施されているが、その題材は全く異なり、狩猟の場面を描いている。ここでは常に動物たちや人間が対になって描かれ、向き合った雄ジカを、ヤシの木のうしろに隠れた人間たちが弓をつがえて狙っている。また、天井ではウサギを鋭い爪で捕まえたワシが飛び交う。他にも、ライオンやヒョウ、孔雀、白鳥といった動物や、中にはケンタウロス、鷲の翼と上半身にライオンの下半身を持つグリフォンといった怪物たちも登場している。

ノルマン王宮 ルッジェーロの間

一方、ウィレルムス1世によって1165年に建設が開始されたジーザ宮殿の内部には、吹き抜けになった中央の部屋に水が引き込まれ、噴水が設けられている。三方向の壁面には、それぞれムカルナスによるアーチ形のくぼみが部屋を装飾している。そして正面には「ルッジェーロの間」でも見られたような、鳥を弓矢で狙う人間、孔雀、ヤシの木を表したモザイク装飾などが施される。この水路は建物の外へと続き、前庭に設けられた池へとつながる(現在は消失しているが、そこにはパビリオンがあったと伝えられている)。光を反射してきらめく水は、乾燥した気候のもとで暮らしていたイスラーム教徒にとって楽園を連想させる一つの要素であり、室内に水を引き込んだり、中庭に池を設けるといった手法は、イスラーム建築においてしばしば重要な演出として使用されていた20
現在、ジーザ宮殿では様々な遺物が陳列されているが、その中でも特に興味深い展示品がある。ルッジェーロ2世に仕えた聖職者、グリサントスの母アンナの遺体を移した際に制作されたと考えられている墓石だ。中央の十字架を囲む碑文は、ラテン語、アラビア語、ギリシャ語、ヘブライ語という4つの言語で書かれており、多文化が共存していたシチリア王国の文化を象徴していると言えるだろう21

20 水を用いたイスラーム建築の演出については、深見, 2003: 172-180を参照。
21 墓石の碑文については高山博氏が解読の過程を解説している(高山, 1995: 39-60)。

ジーザ宮殿
アンナの墓石(上から時計回りにヘブライ語、ギリシャ語、アラビア語、ラテン語の順)

また、イスラーム文化の影響は宮廷建築だけでなく、教会建築においても見られた。ウィレルムス1世の下で国政を任せられていた宰相マイオによるサン・カタルド教会は、とりわけイスラームの影響を強く感じさせる。トレドのサンタ・クルス教会でも見られたような、四角形の平面を4つの柱で9つに区切った空間にアプスをつけた構成で、中央の列にはそれぞれスクインチ・ドームが架けられている。壁面や天井は石材がむき出しになっているものの、床面には色石のモザイク装飾が施されている。外観から見ると、赤い漆喰を施された3つの赤い丸屋根が目を引く。同様の赤い丸屋根は、サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会でも見ることができる。

サン・カタルド教会(外観/ドーム/アプス)

他にも、重なり合った尖頭アーチによる東側の外観が印象的なモンレアーレ大聖堂など、シチリア王国に建てられた建築群は、2015年に「アラブーノルマン様式のパレルモおよびチェファルとモンレアーレの大聖堂」として世界遺産にも登録されている22。このようにシチリア王国の建築もまた、その政治的な経緯があったとはいえ、異なる宗教の建築文化をはねつけるのではなく融合させている。

22 ユネスコのウェブサイトでは推薦書が公開されており、登録されている各建築の解説を読むことができる。
https://whc.unesco.org/uploads/nominations/1487.pdf(最終アクセス:2021年2月1日)

マムルーク朝の歴史家マクリーズィーは、冒頭で取り上げたナースィル・ムハンマドの複合建築の扉口を「世界中で最も美しいものの一つだ」と賞賛している23。彼の周囲にはイスラームの素晴らしい建築が溢れていただろうが、マクリーズィーは西洋のゴシック様式の価値も認めていた。当時のイスラーム教徒とキリスト教徒の間には、宗教をめぐる激しい敵対関係がもちろん存在していただろう。しかしそれと同時に、イベリア半島とシチリア王国を通して分かるように、彼らは互いの文化に影響を受けたり吸収することで、単独の文化では作ることのできなかったであろう新しい魅力的な建築を作りだすことができたのだ。

23 Behrens-Abouseif, 2004: 46.

参考文献

Bartal, Renana. 2018. Relics of place: stone fragments of the Holy Sepulchre in eleventh-century France. Journal of Medieval History, 44:4. 406-421.

Behrens-Abouseif, Doris. 2004. European Arts and Crafts at the Mamluk Court. Muqarnas, vol.21. 45-54.

Flood, Finbarr B. 2001. The Medieval Trophy as an Art Historical Trope: Coptic and Byzantine “Altars” in Islamic Contexts. Muqarnas, vol.18. 41-72.

Gómez, Miguel Dolan. 2011. The Crusades and church art in the era of Las Navas de Tolosa. Anuario de Historia de la Iglesia, vol.20. 237-260.

Kim, Robin Haedong. 2015. The Santo Sepulcro in Torres del Río (Navarra): Historiography, National Identity and a Reconsideration of “Mozárabic” and “Mudéjar” Architecture. Ph.D.diss. Biyn Mawr College.

Krautheimer, Richard. 1942. Introduction to an “Iconography of Mediaeval Architecture”. Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, vol.5. 1–33.

Raizman, Daivid. 1999. The Church of Santa Cruz and the Beginnings of Mudejar Architecture in Toledo. Gesta, vol.38, No.2. 128-141.

Sterlin,H. & Sterlin, A. 1997. Splendours of an Islamic World. London: Tauris Parke Books.

櫻井康人. 2019. 『図説十字軍』. 河出書房新社.

NHK「文明の道プロジェクト」, 清水和裕, 高山博, 山内進, 深見奈緒子, 新井勇治, 鶴田佳子, 包慕萍, 鈴木英明. 2004. 『イスラムと十字軍(NHKスペシャル文明の道④)』. 日本放送出版協会.

高山博. 1995. 『神秘の中世王国 ヨーロッパ、ビザンツ、イスラム文化の十字路』. 東京大学出版会.

高山博. 1999. 『中世シチリア王国』. 講談社現代新書.

深見奈緒子. 2003. 『イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史』. 東京堂出版.

藤本勝次, 池田修(監訳). 1992. 『イブン・ジュバイル 旅行記』. 関西大学出版部.

図版出典

・ナースィル・ムハンマドの複合建築、扉口:
Martyn Smith from Redlands, California, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Madrasa_of_Al-Nasir_Muahmmad_Portal.jpg

・バイバルス2世のハーンカー、扉口:
Hatem Moushir, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Khanqah_Baybars_Al_Jashankir,_photo_by_Hatem_Moushir_39.jpg

・スルターン・ハサンの複合建築、ファサード:
Ovedc, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:By_ovedc_-_Mosque_of_Sultan_Hasan_-_14.jpg

・トレス・デル・リオの聖墳墓教会:
Zarateman, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Torres_del_R%C3%ADo_-_Iglesia_del_Santo_Sepulcro_13.jpg
PMRMaeyaert, CC BY-SA 3.0 ES https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/es/deed.en
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Torres_del_Rio,_Iglesia_del_Santo_Sepulcro-PM_32458.jpg

・トレドのサンタ・クルス教会
外観:
Ignasilm, CC BY-SA 3.0 ES <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/es/deed.en>
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mezquita_Cristo_de_la_Luz_de_Toledo.jpg
アプス:
José Luis Filpo Cabana, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cabecera_de_la_Ermita_de_Cristo_de_la_Luz,_Toledo.jpg
碑文:
Richard Mortel, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Mosque_of_Bab_Mardum_(Cristo_de_la_Luz),_AH_390_(1021),_Toledo_(29416133321).jpg

・ルッジェーロ2世(ラ・マルトラーナ教会のモザイク画):
Matthias Süßen, CC BY-SA.2.5 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Martorana_RogerII2008.jpg

・ルッジェーロ2世のマント:
Griffindor / Public Domain
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Weltliche_Schatzkammer_Wienc.jpg

・ノルマン王宮、王宮礼拝堂:
Andrea Schaffer, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Cappella_Palatina_(27774519079).jpg
Berthold Werner, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Palermo_BW_2012-10-09_11-28-07.jpg
José Luiz Bernardes Ribeiro, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Muqarnas_-_Capela_Palatina_-_Palermo_-_Italy_2015.JPG

・ノルマン王宮、ルッジェーロの間:
Allie_Caulfield from GermanyAllie_Caulfield from Germany, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:2009-03-22_03-29_Sizilien_150_Palermo,_Palazzo_Reale.jpg

・ジーザ宮殿 泉の間:
Matthias Süßen, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_Zisa_(Palermo)-msu-1128.jpg

・アンナの暮石:
Armin, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Viersprachiger_Grabstein_für_Anna.jpg

・サン・カタルド教会
Σπάρτακος, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chiesa_di_San_Cataldo_palermo.JPG
Matthias Süßen, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:San_Cataldo_(Palermo)_msu2017-0191.jpg
Matthias Süßen, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:San_Cataldo_(Palermo)_-_Interior_-_Cloister_and_gardens-msu-0254.jpg

執筆者プロフィール

(Aki Akioka)

東京大学工学系研究科建築学専攻・博士課程

1993年生。2018年に東京大学工学系研究科にて修士(工学)を取得後、進学。専門は中世イングランド建築史で、現在は修道院や大聖堂に見られるチャプターハウスという部屋に着目した研究を進めている。

ひとこと

中学生の頃にフランスのシャルトル大聖堂を訪れたことがきっかけで、中世の建築とその歴史に興味を持ちました。建物自体も勿論ですが、その建物がどのように使われていたのかなど、建築を通して当時の人々の生活や考え方を知ることに特に関心があります。最近の楽しみは、休日にトランポリンで身体を動かすことです。

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