オスマン朝時代の用語一覧

  • アブドゥル・ラフマーン・カトフダー(1715-1776年)

    欧米語表記:‘Abd al-Rahman Katkhda アラビア語転写表記:al-Amīr 'Abd al-Raḥmān Katkhdā, ('Abd al-Raḥmān b. Ḥasan Jāwīsh al-Qāzdaghlī)

    カイロ生まれのアミール。父は当時オスマン朝エジプト州の実権を握っていた軍事集団カーズダグリーヤの領袖であった。彼も1740年に領袖に就任するが、すぐに失脚する。その後復権を果たすも、のちにオスマン朝に反旗を翻すアリー・ベイ(?-1773)との権力闘争に破れて、最終的にはメッカに亡命した。慈善事業に熱心であったことでも知られ、カイロ旧市街にサビール・クッターブを建設したほか、マンスーリヤやアズハル・モスクをはじめとするそれ以前に建てられた宗教施設への寄進や修復も行った。

  • オスマン朝(1299-1922年)

    欧米語表記:Ottoman Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-'Uthmānīya

    13世紀末にアナトリア西部で誕生した、ムスリム・トルコ系王朝。15世紀後半以降、アナトリア東南部を巡ってマムルーク朝と断続的に戦闘を行っていたが、1516年のシリア北部で行われたマルジュ・ダービクの戦いの勝利、1517年のカイロ入城によってマムルーク朝を滅ぼし、エジプトに対しても支配権を確立した。その後、ムハンマド・アリー朝が成立する1805年までが、オスマン朝によるエジプト支配の期間とする。

  • ルカイヤ・ドゥッドゥのサビール・クッターブ(1761年建造)

    欧米語表記:Sabil Kuttab of Ruqaiya Dudu アラビア語転写表記:Sabīl wa Kuttāb Ruqayya Dūdū

    バダウィヤ・シャヒンが、娘であるルカイヤ・ドゥドゥ(1758年没)のために建設したサビール・クッターブ。施主の夫は、オスマン朝のアミールであったラドワーン・カトフダ・アルジュルフィで、娘の死去の4年前に逝去している。ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの南門(ズウェイラ門)から城塞の正門前広場に続く目抜き通りであるスーク・シラーハ(武器市場)に面している。このサビール・クッターブは、道路に沿ってU字型を描き、石浮彫、青・緑・白のタイル、木材の打ち抜き細工などが施された手の込んだ秀作である。2020年から修復工事が始まっている。

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