欧米語表記:Mosque of Aqsunqur アラビア語転写表記:Masjid Āq Sunqur
マムルーク朝のアミール・アークスンクルによって1346/7年に建設されたモスク。彼はスルターン・ナースィルに仕え、ナースィルの娘婿となり、ナースィルの死後、その未亡人とも婚姻を結んだ。モスクは、カーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)の南門であるズウェイラ門と城塞を結ぶ通りに面し、東市壁の近くに位置する。中庭を囲む多柱式のモスクであり、太いピア(構造柱)にクロス・ヴォールトが架けられている。円柱に木造平天井が架けられることが一般的であるカイロのマムルーク朝建築において、このような様式はここでしか見られない。西側のファサードの北にクジュク(1342年没、スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子)の廟、南に円形断面のミナレットがある。使われたタイルの色からブルー・モスクとも呼ばれるが、タイルはオスマン朝期の1652年に、イブラヒム・アガ・ムスタフフィザーンによって修復された際に張られたものであり、その際には、回廊の南西部にタイル張りの廟が修復者のために設けられた。20世紀末にアガ・ハーン財団による修復が行われた。
欧米語表記:Arcade
アーチが開口する壁を一方向に連続して構成されるアーチが連続する壁体、または曲面天井(ヴォールト)に覆われた路線状の空間をも指す。日本のアーケード街は後者である。
欧米語表記:Arch アラビア語転写表記:qaws
壁に開口する部分を作るために弧状に渡した構造材を指す。石やレンガを積み重ねた建物(組積造建築)において屋根を架ける場合や入口を作る場合などに、横方向に渡す長大な部材が得られない場合、小さな部材を迫持ち状に配することで、構造的に安定した部分(横架材)を作ることができる。イスラーム以前には、地中海周辺に半円形、ペルシアに放物線形のアーチがあったが、イスラームの普及以後、尖頭形、多弁形などさまざまな形が作られ、構造に加えて装飾的な役割が大きくなった。
欧米語表記:Ayyubid Daynasty アラビア語転写表記:al-Dawla al-Ayyūbīya
エジプト、シリアを中心に、ジャズィーラの一部、イエメンを支配したスンナ派の王朝。カイロに都をおいた。創始者のサラーフ・アッディーン(サラディン)(在位1169−93年)はザンギー朝に仕える軍人であったが、1169年にファーティマ朝の宰相に任命され、71年にはファーティマ朝カリフを廃して、アッバース朝カリフの宗主権を認めるスンナ派の支配体制を復活させた。その後シリアからジャジーラへと配権を広げたが、拡大した領土は一族に封土として分与されてその支配が任されたため、彼の死後に同王朝の領域は分割され、半独立の政権が樹立され独立君侯国の連合体という体制となった。実質的に最後のアイユーブ朝スルターンとなったサーリフ(在位1240−49年)は、多数のトルコ人マムルークを購入し、バフリー・マムルーク軍団を創設した。1249年にサーリフが没すると、翌年に起こった彼らのクーデターにより同王朝は滅亡した。その後のマムルーク朝は、サラーフ・アッディーン(サラディン)によりエジプトに導入されたイクター制やスンナ派の統治体制などを継承し、発展・整備されていった。
欧米語表記:Aqmar Mosque アラビア語転写表記:Masjid al-Aqmar
ファーティマ朝末期(1125年)の中規模モスクで、宮殿都市カーヒラ北部の中央通り(現在のムイッズ通り)沿いに建設された。ファーティマ朝期のカーヒラにはこの通りを挟んで東の大宮殿と西の小宮殿があった。多柱式(柱を碁盤目上に林立させて空間を作る方法)の礼拝室と中庭(サハン)とそれを囲む周廊(リワーク)からなる。ファサードにはシーア派の一派であるイスマーイール派と関連する図像や装飾がある。マムルーク朝期には、アミール・ヤルブガーが1396年に改修を行い、ミナレットを増築したが、ミナレットが傾いたために1412年に再度改修された。20世紀に入ってからもアラブ美術の歴史建造物修復委員会の修復、1990年代にイスマーイール派ボホラーの資金による修復がなされた。レンガ造ミナレットのムカルナスのバルコニーとその下のシャフト、各ベイを覆う曲面天井はマムルーク朝の建築だと推察される。
欧米語表記:Mausoleum of al-Ashraf Khalil アラビア語転写表記:ḍarīḥ Sulṭān al-Ashraf Ṣalāḥ al-Dīn Khalīl b. al-Manṣūr Qalāwūn
スルターン・カラーウーンの息子でスルターン位を継承したアシュラフ・ハリール(在位1290-93年)が、1288年にカイロの南の墓地に建設した墓建築。南の墓地には預言者ムハンマドの係累の墓が建設され、アッバース朝から招来されたカリフの墓も1243年に建設されていた。現在、併設されたというマドラサの跡形は残っていない。正方形の墓室とキブラ軸手前の奥行きの浅い前室という構成は、近傍に位置し、先例となるファーティマ・ハトゥーン(ハリールの兄サーリフの母)廟(1283/4年創建)と類似する。マムルーク朝建築のドームには珍しいドーム周囲の8つのバットレスをもち、カラーウーンの墓室のドームの復元の際にこの様式が用いられた。
欧米語表記:Azhar Mosque アラビア語転写表記:Jāmi' al-Azhar
ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの大モスクとして、矩形都市のほぼ中央に建設され、その後も教学の場として増築・改築が重ねられ、現在も宗教的権威をもつモスク。10世紀後半のファーティマ朝期にさかのぼる部分は、中庭の周囲と東側の天井高の低い多柱式の礼拝室である。マムルーク朝期には3つのマドラサと2本のミナレットが付設され、オスマン朝期には礼拝室がキブラ方向に大きく拡張された。2000年代に入ってからも修復が続き、サウジアラビアの基金により中庭周りは純白に姿を変えた。
欧米語表記:Abbasid Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-'Abbāsīya
イラクを中心に、西はマグリブから東はマー・ワラー・アンナフルまでを支配したイスラーム王朝。首都はバグダード(836−892年はサーマッラー)。アッバース朝の支配体制を築いたのは第2代カリフ、マンスールであり、彼は新都バグダードを建設し、中央集権的体制の確立に努めた。第5代カリフであるハールーン・アッラシードの治世に最盛期を迎え、その子であるアミールとマームーンとの間でカリフ位をめぐる内乱が起きると、各地の政情は不安定となっていった。第8代カリフ、ムータシムの時代にトルコ人奴隷兵(マムルーク)を採用し、彼ら軍閥によるカリフの傀儡化を招くと,周辺辺境地域の半独立化、イラクにおける黒人奴隷ザンジュの乱やカルマト派の反乱が相次ぎ、イスラーム世界の軍事支配体制化の契機を作った。1258年にモンゴル軍によりバグダードが蹂躙され終焉を迎えた。ただし、カリフの後裔はマムルーク朝の都カイロで保護を受け、名目上のカリフ位は同王朝の終焉まで継続した。
欧米語表記:Abacus
柱頭(柱の上にのる装飾的な部材)と梁の間に挿入された部材で、古代ギリシア・ローマ建築では厚板状の場合が多い。平面を広げることによって、梁との接合を安定させ、高さを調節するために使われる。
欧米語表記:Mosque of 'Abd al Ghani al-Fakhri アラビア語転写表記:Masjid 'Abd al-Ghānī al-Fakhrī
スルターン・ファラジュとスルターン・ムアイヤド・シャイフの宰相(ワズィール)であったアブドゥル・ガニー・アルファフリーが1418年に、現在のポートサイード通りに面して建設したモスク。4イーワーン式のモスクであり、礼拝室には2本の円柱が据えられている。カラーウーンの礼拝室に見られる円柱を用いた3廊構成は、スルターン・バルクークの複合施設(1384-86年)と、同建築の3例が現存するのみである。三者を比較すると、次第に柱の数が減り、囲まれた部分は横長になっていく傾向が見られる。
欧米語表記:‘Abd al-Rahman Katkhda アラビア語転写表記:al-Amīr 'Abd al-Raḥmān Katkhdā, ('Abd al-Raḥmān b. Ḥasan Jāwīsh al-Qāzdaghlī)
カイロ生まれのアミール。父は当時オスマン朝エジプト州の実権を握っていた軍事集団カーズダグリーヤの領袖であった。彼も1740年に領袖に就任するが、すぐに失脚する。その後復権を果たすも、のちにオスマン朝に反旗を翻すアリー・ベイ(?-1773)との権力闘争に破れて、最終的にはメッカに亡命した。慈善事業に熱心であったことでも知られ、カイロ旧市街にサビール・クッターブを建設したほか、マンスーリヤやアズハル・モスクをはじめとするそれ以前に建てられた宗教施設への寄進や修復も行った。
欧米語表記:Ablaq アラビア語転写表記:ablaq
縞模様の建築装飾を指す。名称は、アラビア語のアブラク(交雑)に由来する。この技法は、イスラーム以前のシリアの初期キリスト教建築において、異なる素材(レンガと石)を層状に積み重ね、双方の構造的利点(軽くて弱いレンガと重くて強い石)を利用したことを起源とする。コルドバのメスキータのアーチは、創建当初、この伝統を受け継いでいた。その後、縞模様が装飾的役割を強め、色石を重ねたり、あるいは表面を縞状に塗り分ける装飾技法となっていった。マムルーク朝建築でアブラクを利用したものは、特にシリア地域に目立つ。マムルーク朝のスルターン・バイバルス1世は、1266年にダマスクス郊外に建設した宮殿をカスル・アブラク(縞模様の宮殿)と名付けた。
欧米語表記:Comité de Conservation des Monuments de l'Art Arabe アラビア語転写表記:Lajnat al-Ḥifāẓ 'alā al-Āthār al-'Arabīya
ヘディーブ・タウフィーク(在位:1879−92年)によって、1881年にエジプトにおけるコプト建築とイスラーム建築の調査、保全を目的に、宗教寄進(ワクフ)省の下部組織として設立された委員会。フランス語の名称の冒頭をとり、通称「コミテ(委員会)」で知られる。ムハンマド・アリー以降の近代化施策の中で、首都カイロにおいてもヨーロッパをモデルとした街並みへと再開発が行われる中で、破壊と遺棄にさらされた前近代の歴史的建造物の保全をその目的とした。エジプト国内全ての歴史的なコプトおよびイスラーム建築のリスト化と状況の査定が行われ、保存、修復、または解体して博物館での部分的な保存が行われた。のちに1936年には教育省の管轄下に入り、1961年にはその役割をおえて解散した。その役割と権限は、エジプト考古最高評議会(Supreme Council of Antiquities)の下部組織である、イスラム・コプト歴史建造物最高評議会(Permanent Committee for Islamic and Coptic Monuments)が担い、2011年に発足したエジプト考古省の管轄下となった。
欧米語表記:iwan アラビア語転写表記:īwān
開放的な建築空間を指すペルシア語に由来する。狭義には、大きなアーチを開口した広間(半戸外となることが多い)を指し、本来は曲面天井(ヴォールト)をいただく。軸上に対に、あるいは直交する2軸上に4つ対称に配置される例が多く、それぞれ2イーワーン式、4イーワーン式と呼ばれる。イーワーンは、各法学の教室として利用され、4イーワーン・マドラサはスンナ派4法学派のための教室となった。マムルーク朝初頭の13世紀後半から、カイロに大アーチが開口する広間にトンネル・ヴォールトをかけ、対に用いる技法が導入された。スルターン・ハサンの複合施設にある4つのイーワーンはその好例である。なお、当初はトンネル型の天井で覆われていたが、エジプトにおいては次第に平天井の例が多くなっていったが、いずれの場合もイーワーンと呼ぶ。住宅形式のカーアと類似するが、異なる分類として峻別される。
欧米語表記:Mosque of Ibn Tulun アラビア語転写表記:Masjid Aḥmad Ibn Ṭūlūn (Masjid Ibn Ṭūlūn/Masjid al-Ṭūlūnī)
アッバース朝から派遣されたエジプト州総督で、後にエジプトに独立政権を確立したイブン・トゥールーンによって876-79年に建設された大規模なモスクであり、それ以前に創建されたアムル・モスクと比べて、当初の姿をよく残している。マムルーク朝期には、フスタートとカーヒラの中間、城塞の西側という重要な位置を占めた。スルターン・ラジーン(在位1296-99年)によって、礼拝室中央のミフラーブ周囲、中庭中央のドーム建築、ミナレットなどが増改築された。ミフラーブはガラス・モザイクを伴い、ミフラーブ前のドームには木造ムカルナスが採用され、マムルーク朝期に礼拝室の南東部に増築されたミナレットは20世紀に解体された。また、1475年にスルターン・カーイトバーイが外庭(ズィヤーダ、モスクを囲む無蓋の空間)にサビールを増築した。
欧米語表記:Dome of the Rock アラビア語転写表記:Qubbat al-Ṣakhra
エルサレムにある、預言者ムハンマドが昇天(ミーラージュ)をおこなった聖地に建てられたドーム建築。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地として位置づけられている、ユダヤ教、キリスト教の聖地でもあるエルサレムの聖域ハラム・シャリーフ(神殿の丘)の中央に位置し、ドームの内部には聖なる石を祀っている。
欧米語表記:inscription
英語で刻むこと、あるいは銘刻を指す。イスラーム建築においては、形式的なイスラーム書体で表現されたアラビア文字で、建物を装飾することが好まれた。その文章には、クルアーンの章句が描かれることが多いが、施主や建造年なども書き添えられる。マムルーク朝建築においては、コーニスなど帯状の装飾帯がインスクリプションで装飾される事例が多く見られる。
欧米語表記:relief
建築装飾において、地の部分を彫り込んで、図の部分を浮き上がらせる技法。例えば、文字装飾では、バックの部分を彫りこむことにより、文字が浮かび上がる。凹凸の程度によって、浅浮彫などの用語も使われる。マムルーク朝の建築では石材、スタッコ、木材などに適応される。
欧米語表記:perforated work
板状(石やスタッコ)の部材を紋様状に打ち抜き、透過光によって装飾する技法またはその細工。カイロでは古くはイブン・トゥールーン・モスクの高窓層が知られ、さまざまな幾何学文様が用いられる。マムルーク朝期には、窓の内側に彩色豊かなステンドグラスをはめ込み、窓の外側に打ち抜き細工を用い、二重の模様の重なる複雑な装飾が好まれた。
欧米語表記:Umayyad Mosque at Damasqus アラビア語転写表記:al-Jāmi' al-Umawī
ウマイヤ朝の首都ダマスクスに8世紀初頭に建設された大モスク。現存するモスクの中では創建当初の形をよく保っていることから、最古のモスクともいわれる。古代ローマ時代のジュピター神殿、キリスト教公認以後のヨハネ大聖堂の敷地を利用した建築で、現在も周壁や柱に当時の部材が姿を見せる。円柱の使用やガラス・モザイクなど、古代地中海的な様式が強いモスクである。マムルーク朝期にも何度か修復がなされ、スルターン・ナースィル・ムハンマドのもとでシリア総督であったタンキズによって大規模な修復がなされている。
欧米語表記:Description de l'Égypte (Napoleon's) アラビア語転写表記:Waṣf Miṣr
ナポレオンによるエジプト侵攻時に同行していた研究者による調査報告としてまとめられ、1809年から22年にかけてフランスで出版されたもの。エジプト学の発生を促したが、その後のオリエンタリズム(東方研究)の流れやエジプトを含むアラブ地域の植民地化にも大きな影響を与えた。
欧米語表記:Jerusalem アラビア語転写表記:Bayt al-Maqdis; al-Quds 別称:イェルサレム
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教の聖地。イスラームにとってメッカ、メディナにならぶ第3の聖域。第2代正統カリフ・ウマルの時代の638年にアラブ・ムスリム軍により征服された。ユダヤ教の神殿があったとされるモリヤの丘を聖域ハラム・シャリーフとみなして、ウマル・モスク(岩のドーム)とアクサー・モスクを建設したため、アラビア語ではバイト・アルマクディス(聖なる家)またはクドゥス(聖域)と呼ばれる。
欧米語表記:Ottoman Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-'Uthmānīya
13世紀末にアナトリア西部で誕生した、ムスリム・トルコ系王朝。15世紀後半以降、アナトリア東南部を巡ってマムルーク朝と断続的に戦闘を行っていたが、1516年のシリア北部で行われたマルジュ・ダービクの戦いの勝利、1517年のカイロ入城によってマムルーク朝を滅ぼし、エジプトに対しても支配権を確立した。その後、ムハンマド・アリー朝が成立する1805年までが、オスマン朝によるエジプト支配の期間とする。
欧米語表記:Onyx
オニキス自体は縞目の硬い鉱物(玉髄)を指すが、建材としての黄色オニキスや緑オニキスは、リビアやエジプトなどで産出する黄色や翡翠色で縞目の入った被覆用の石材。縞目の美しさから板状に用いられる場合と、小さく切って色石として用いられる場合がある。マムルーク朝の建物の腰壁(壁の分節の最も下の部分、高さ0.7メートルから2メートル以上までを指す場合もある)や色石のモザイクに多用される。
欧米語表記:qa'a アラビア語転写表記:qā'a
本来は広間を指すアラビア語で、中世アラブの客間様式を表す住宅史用語として使われる。その形は、中央に一段低い部分(ドゥルカ)を作り、その両側を一段高い広間(タザル)とし、3つの空間は連続的ながら、途中にアーチが挟まれ、両脇部分はイーワーン(大アーチを開口する広間)のような空間となる。中央の空間を高くして、そこに空気や光を取り入れる高窓(シャクシェイハ)を設け、その下に噴水を設置するなどして、快適な室内気候を作り出した。このような形式は、ファーティマ朝に成立したという見方とアイユーブ朝期に成立したという見方がある。マムルーク朝の14世紀には、宮殿や邸宅に定型化した実例が残り、邸宅のカーアがモスクに転用された例も数例ある。特に14世紀後半以後、住宅のカーアとモスクのイーワーン形式は似通った発展を遂げた。
欧米語表記:Qa'a Dardir アラビア語転写表記:Qā'at al-Dardīr
ファーティマ朝の宮殿の遺構とされるもので、オスマン朝の住宅の一部を占めるが、カーアの中では古いものとして位置付けられる。一方、建設年代に関しては、3部構成の両端部のヴォールト天井やアーチの様式等から、異論もある。邸宅建築や宮殿建築は、宗教建築に比べて残りにくく、改変も多く見られる。加えて、住宅様式のカーアと宗教建築に使われた4イーワーン式は類似した構成であり、相互に影響を及ぼしているため、カーアとイーワーンの関係は複雑化している。当建築の建設時期解明は今後の課題である。
欧米語表記:The Kaaba アラビア語転写表記:al-Ka'aba 別称:カアバ
アラビア半島のメッカにあるイスラームの最も神聖な神殿。カーバとは「立方体」を意味し、石造の立方体の形をした建物になっている。「神の館(バイト・アッラー)」とも呼ばれる。イスラーム期以前から聖域とみなされており、もともとは神々の偶像が内部に祀られていたが、イスラーム勢力による征服後に全て破壊された。カーバ神殿はそれを取り囲む聖モスクの中庭中央に位置し、大理石の基盤の上に長辺12メートル、短辺10メートル、高さ15メートルの大きさであり、その四隅はほぼ東西南北を向いている。平屋根は北西に向かって緩やかな勾配があり、雨樋に続いている。北東に向かう面が正面で、地上2メートルの部分に入口が設けられている。その左端、東角の地上1.5メートルのところにアブラハムが建立を行ったときに天使が運んできたとされる、巡礼者が接吻を行う聖なる黒石がはめ込まれている。外面は黒色の一枚の絹布(キスワ)で覆われ、巡礼の期間だけその下部が巻き上げられる。
欧米語表記:Qasr Ablaq アラビア語転写表記:Qaṣr al-Ablaq
スルターン・ナースィル・ムハンマドによって1315年にカイロの城塞に建てられた宮殿で、スルターン・バイバルス1世が1266年にダマスクス郊外に建設した、カスル・アブラク(縞模様の宮殿)にちなんで命名されたという。現在は消失している。城塞に建設された宮殿に関しては、スルターン・カラーウーンが1286年に建築した大謁見広間(イーワーン・カビール)は、19世紀初頭までは現存していたため、ナポレオンの『エジプト誌』に描き残されている。その平面は大ドームをいただく広間を柱廊が取り巻く形式であった。1985年の発掘により、その近傍にマムルーク朝のカーアが発見され、柱の銘文からスルターン・アシュラフ・ハリールの宮殿であることが判明した。アブラク宮殿に関しては、これらの近傍にあり、城下を見下ろす4つの広間をもっていたという情報が残るのみである。
欧米語表記:Qasr ibn Wardan アラビア語転写表記:Qaṣr Ibn Wardān
シリアにある教会堂と城塞の遺構で、6世紀の中頃にユスティニアヌス帝の時代に、サーサーン朝との境域に創建された。ファサードは、茶灰色のレンガと黒い玄武岩(バサルト)を層状に積み重ねた大胆な縞模様となっている。軽いレンガと強い石という双方の利点を用いた構法であると同時に、アーチや梁等の色使いから、装飾的な意図も看取される。いわゆる三廊式の教会堂ではあるが、大アーチとドーム下部から身廊部分にはドームが架けられていたとされる。バシリカ式にドームを架けたタイプの教会堂の例としては、コンスタンティノープルのハギア・ソフィアがあげられる。
欧米語表記:Palermo Cathedral 別称:パレルモ大聖堂
シチリア島のパレルモにノルマン王国時代の1185年に建設された司教座教会(カテドラル)。元は、831年にビザンツ勢力に替わりシチリア支配をすることとなったムスリムが建設した大モスクであり、1072年にノルマン王国がそれを奪還し、教会堂として用いるようになった。15世紀に付設された入り口ポーチを支える円柱にはアラビア語でクルアーンを綴ったインスクリプションが残り、モスクの柱が転用されたことを示している。18世紀末の改修によって新古典主義の建物に改装されているが、アプス(東端部)外側の装飾には、ノルマン様式の交差アーチが残る。
欧米語表記:Duomo di Monreale 別称:モンレアーレ大聖堂
シチリアのパレルモ近郊のモンレアーレに1174-82年に建設された司教座教会(ドゥオーモ)。パレルモ大聖堂、チェファル大聖堂と並ぶノルマン教会堂建築の一つであり、当初の形態を最もよく残している。三廊式の教会堂の内部には、金色の地のガラス・モザイク、クロイスター(修道院中庭)の列柱廊(対の装飾的な大理石柱を使う)など、北アフリカやアンダルシアのイスラーム建築との共通点が散見される。ノルマン様式の教会堂は、三廊式を基本としているが、東の内陣部分を広く取り、3つのアプスを突出させることが特有で、その外観はイスラーム風の交差アーチで分節する。なお、パレルモのジーザ宮殿と王宮他を含めアラブ・ノルマン様式建造物群として世界遺産に登録され、パレルモ近郊の2つの大聖堂をも含まれる。
欧米語表記:Glass mosaic
小片を集成して図柄を表す装飾技法。小片として色ガラスを使用したものをガラスモザイクという。モザイク技法自体は本来は石を用いており、ヘレニズム以後地中海周域に流布した技法であるが、ガラス・モザイクはビザンツ建築において多用された技法である。イスラーム以後、初期イスラーム時代の岩のドーム、ダマスクスのウマイヤ・モスクに使用された。その後、コルドバのメスキータ(10世紀の拡張部)に使われ、13世紀にアイユーブ朝、マムルーク朝の数例に復古的に使われるが、イスラーム建築においては定着しなかった。
欧米語表記:al-Mu'izz lil-Din Allah (Fatimid Caliph) アラビア語転写表記:al-Mu'izz lil-Dīn Allāh, Abū Tamīm Ma'ad Mu'izz b. Manṣūr, al-Khalīfa al-Fāṭimī
ファーティマ朝4代カリフ。北アフリカ一帯の征服を行い、969年にはエジプトも占領した。自身も973年にエジプトに新たに建設させた都カーヒラ(カイロ)へと移住して、東方地域への拡大、シーアの宣教活動の強化を図った。
欧米語表記:Geometric Pattern
直線によって構成される幾何学図形(三角形、四角形、五角形、星形など)を規則的に繰り返すことによって、平面を埋め尽くした模様。基本的にはコンパスと定規で描ける図形であり、最小単位を見いだすことによって、その構成方法が理解できる。イスラーム建築においては具象的な絵画を忌避したために、幾何学模様、植物模様(アラベスク)、文字模様が極度に発達したが、そのすべては幾何学を基本としている。ドーム等の球面に適応されることもあり、マムルーク朝後期には、幾何学模様を施したドームが好まれた。
欧米語表記:Endowment Document アラビア語転写表記:waqfīya 別称:ワクフ文書
ある人物が寄進(ワクフ)を行うに際して、寄進対象となる施設・人・活動や、財源となる物件、その他様々な規定について記録された文書のこと。アラビア語ではワクフィーヤ(ワクフ設定文書)と言われる。
欧米語表記:qibla アラビア語転写表記:qibla
ムスリムが礼拝の際に向く方向、具体的にはメッカのカーバ神殿のある方角のこと。当初は、ユダヤ教徒の慣習に習い、エルサレムの神殿に向かって礼拝していたが、キブラを変更するようにとの神の啓示が下り、現在の方向に変更された。モスクの中には、キブラの方角を示すためにミフラーブという窪みが存在する。
欧米語表記:canopy 別称:天蓋
天蓋のことを指す英語。現代建築においては、建物から突出する大規模なひさしも含まれるが、歴史的には玉座や墓石など高貴な場所を覆うものを指した。天蓋は、支柱と布からできた簡易なものから、石製や天井から吊るされた金属製など様々である。
欧米語表記:canopy tomb
四角形の平面(壁の場合が多いが柱の場合もある)にドームを架けた墓建築のこと。イスラームの教義においては、墓建築は否定されたが、9世紀頃から、ドームを持つ建物で覆われる墓が見られるようになった。この形式はイスラームの広がりとともに、北アフリカから中国、東南アジアまでの広い地域に見られる。東方のイスラーム(イラン、中央アジア、インド)などにおいては、墓建築が多様に発展したので、それらと区別するために、簡易なドームのみを持つ簡易な墓建築を指す言葉として用いられる。インド、マムルーク朝の墓建築は、概ね、キャノピー墓である。また、キャノピー墓はブハーラのサーマーン廟のように、単独で建てられたものを指すことが多いが、マムルーク朝建築においては、複合施設を建てる際に、その構成要素の一つとなった傾向が見られる。
欧米語表記:Chapel of Krak des Chevaliers
シリアの十字軍の城塞の内部にある教会堂で、1142年から71年まで聖ヨハネ騎士団が占拠した時代にさかのぼる。1271年にマムルーク朝のスルターン・バイバルス1世が奪還し、教会からモスクに転用された。城塞の北部に位置し、東側にアプスを持ち、3部のトンネル・ヴォールトで覆われた細長い部屋である。モスクに改装されたときに、南壁に石造のミフラーブとミンバルが付設された。その方角は、教会堂は通例では東を向いて建てられるので、シリアではメッカの方角が南であったことに由来する。
欧米語表記:Kufic Script アラビア語転写表記:Khaṭṭ Kūfī
アラビア書道の書体の一つで、直線、直角や円から構成される幾何学的な書体。8世紀から9世紀にクルアーン写本に用いられ、その名はイラクの都市クーファにちなむ。
欧米語表記:segmental arch
半円アーチを構成する円弧のうち、上部だけを用いたものを、その形から櫛形アーチという。イスラーム建築では尖頭形アーチを用いることが多いが、マムルーク朝建築においては、フラットアーチ(形は梁と同様に平だが、部材を迫持ち式に積んだもの)の荷重を低減するために、その上部に櫛形アーチをかけて空間を作ることが好まれた。
欧米語表記:Taq Kisra, Iwan-I Khosrow 別称:ホスローの宮殿、ターク・キスラ
イラクのクテシフォンにあるサーサーン朝宮殿。巨大なアーチが開口し、間口25.5メートル、奥行43.5メートル、高さ37メートルの広間によって、ホスローのアーチあるいはホスローのイーワーンと呼ばれる。その建設年代は不明であり、3世紀あるいは6世紀中葉、末という3つの説がある。この広間は宮殿建築の一部であり、東に向かって開くイーワーン広間の南北に伸びる壁を備えていた。アーチを開口してトンネルヴォールトをいただくイーワーンの典型として知られ、中世のアラビア語文献にも比喩として登場するが、このサイズを超えるイーワーンは建設されていない。Cf.スルターン・ハサンの複合施設における、礼拝室のイーワーンは、間口12メートル、奥行25メートル、高さ26メートルである。
欧米語表記:muntin
木製の矩形断面の小さな部品を様々な継手で組み合わせた透かし細工。全体は幾何学文様の構成となる。同じく木製透かし細工ながら、裏表の面は平らになる点は、ろくろ細工のマシュラビーヤとは異なる。カイロにおける組子技法は、マムルーク朝期にさかのぼる実例があるが、マシュラビーヤが普及し現在も使われているのに対し、組子細工は廃れてしまった。
欧米語表記:al-Quran アラビア語転写表記:al-Qur'ān 別称:コーラン
イスラームの聖典。預言者ムハンマドに下された神の啓示で、諸預言者に与えられた諸々の啓典の一つとされる。クルアーンの原義は「読まれる(誦まれる)もの」で、暗記、朗唱することが原則であったため、ムハンマドの弟子の中で、それに秀でた者が暗唱者として尊ばれた。ムハンマド没後、アラブ・ムスリムの征服活動により、暗唱者の戦没や、征服した各地でのクルアーンの伝承の異動が生じだ。このため、第3代正統カリフ・ウスマーンの時代に正典化が命じられ、書物の形で一冊の本にまとめられた。この書物の形にまとめられたクルアーンのことをムスハフと呼び、ウスマーンはこの時まとめられた公定ムスハフを標準クルアーン(ウスマーン版クルアーン)とし、それ以外の異本を廃棄させた。そのため、クルアーンには偽典や外典はないとされる。
欧米語表記:Keppel Archibald Cameron Creswell
イギリスのイスラーム建築史学者(1879年—1974年)。工学を学び、第1次世界大戦後にイギリス陸軍航空隊に入りエジプトに赴任した。エジプト赴任中、精力的に中東のイスラーム建築を調査し、写真撮影を行い、建築図面を作成した。1931年フアード大学(現在のカイロ大学)に就任・教授職につき、1951年にはカイロ・アメリカン大学に移った。代表的な著作として、『初期イスラーム建築』2巻(第1巻: 1932年, 第2巻: 1940年)、『エジプトのイスラーム建築』2巻(第1巻: 1952年, 第2巻: 59年)がある。彼が残した貴重なフィルムや書籍は、様々なメディアを通して今なお利用され続けている。
欧米語表記:crenellation
建物の上部に立ち上がる壁(パラペット[手すり壁]、バトルメント[胸壁])で、装飾的な凹凸をもつものを指す。この凹凸は本来、城塞建築において矢や銃をうつ狭間(マーロン[銃眼])を作るために設けられたものである。乾燥地域の建築では陸屋根(平らな屋根)に、装飾的な透かし壁を立ち上げることがあり、その部分をクレネレーションと呼ぶ。カイロのイスラーム建築においては、イブン・トゥールーン・モスクの実例が特徴的なものとして残っている。
欧米語表記:cross vault 別称:交差ヴォールト
2つのトンネル・ヴォールトを直角に交差させた時にできる曲面天井。ヴォールト(曲面天井)は、四方のアーチの互いに向かい合う頂点をつなぐ十字形と、互いに向かい合う起拱点(アーチの最下点)を結ぶアーチの稜線から構成される。西欧のゴシック建築において、稜線部をリブ(突出した帯)として強調することによって、特異発展した技法である。イスラーム建築でも散見されるが、ゴシック建築と比べると副次的な技法にとどまる。カイロのマムルーク朝においては、アークスンクール・モスク(1346年)に大規模な実例がある。
欧米語表記:lattice work
「格」には骨組み、あるいは方形に組み合わせるという意味があり、格子は狭義には細く長い材を縦横に間をあけて組んだものを指す。アラブのイスラーム建築においては日本の障子の桟のような格子細工は存在しない。透かし細工にする場合、小さな部品を組み合わせる組子細工(参照)やマシュラビーヤ(ロクロ細工)、あるいは石やスタッコを打ち抜く打ち抜き細工とすることが通例である。
欧米語表記:coffer ceiling 別称:格天井
天井を平滑面とするのではなく、四角形などの枠組みを反復・分割して凹凸をつけて構成する技法で、格間は突出する部分によって分割された凹んだ部分を指す。日本では仏教寺院内陣部や、二条城の大広間などの格の高い空間に使われる。また、ローマのパンテオンのようにドーム曲面に採用されることもある。中東のイスラーム建築においては、幾何学模様で格間を作ることもあり、より発達すると木製ムカルナスの天井となる。
欧米語表記:cosmatesque
色石の象嵌細工の様式を指し、中世イタリアを中心に、ヨーロッパの教会堂に広まった。細かな幾何学図形を用いることに加え、円柱を輪切りにした円形を主たる構成とする点が特長である。その名は、12世紀から13世紀のローマで一族で色石のモザイクを作成したコスマティ家に由来する。地中海世界においては、多色の大理石を象嵌にして模様や図柄を表現する手法が伝統的にある。そうした中で、コスマテスクが成立した背景には、当時のラヴェンナのビザンツ建築、パレルモのノルマン建築からの影響、さらに既存の建物に使われた石材がローマには豊富に存在したことなどの複数の要因が重なったことがあげられる。マムルーク朝建築の色石細工の発展には、地中海のイスラーム治下の技法とともに、キリスト教圏の事例も視野に入れるべきである。
欧米語表記:column
円形断面の柱を指す。地中海世界においては、コラムの伝統が強く、エジプトにはファラオ時代、ヘレニズムからコプト時代まで数多くの建築にコラムが使われた。イスラーム以前にも石材の転用は行われていたが、イスラーム化以後その傾向は顕著となる。モノリス(単一部材)の円柱は、2次的利用が容易かったので、アムル・モスクやアズハル・モスクをはじめ各所に転用され、マムルーク朝後期までは、モスクは転用材の円柱で構成されたものが大半を占める状況である。通常はヘレニズム以後の円柱が転用されたが、マムルーク朝期には、意図的にファラオ時代の柱を転用することもある。柱礎や柱頭で高さを調整し、不揃いな円柱で空間が構成された。中には柱頭を柱礎としたものもあり、それぞれバラバラに使われた。
欧米語表記:Corinthian order
古代ギリシア・ローマ建築の柱の様式名の一つ。様式名は柱(柱礎、柱身、柱頭)とその上にのる水平部分(エンタプラチュア)を含めた比例をさし、ギリシアの様式は、柱が太く重厚なドーリス式、柱が細く軽快なコリント式、中間的なイオニア式に区別される。それぞれの様式では、柱頭が特徴的で、コリント式柱頭はアカン指すの葉に包まれ。上部の四隅に渦巻き型を突出させる。エジプトのイスラーム建築におけるファラオ時代以後、コプト以前の中東の転用材では、コリント式柱頭が圧倒的に多い。なお、転用の際には、柱頭、柱身、柱礎を別々に用いることが多く、古代建築における柱の比例は無視された。
欧米語表記:Sasanid Dynasty 別称:ササン朝
アルダシール1世がパルティアを滅ぼして建国。現在のイラン・イラクにあたる地域を中核の領土としながら、イスラーム化以前のアラビア半島に対しても影響力を行使した。王位争いによる弱体化の中、アラブ・ムスリム軍の侵攻を受けて滅亡した。しかし、その統治制度や文化はイスラーム勢力に取り込まれ、大きな影響を残した。
欧米語表記:Mausoleum of Sayyida Ruqaiyya アラビア語転写表記:Mashhad (Masjid) Sayyida Ruqayya
ファーティマ朝末期の墓建築。ルカイヤは第4代カリフ・アリーの娘で、ファーティマ朝期の1133年にズウェイラ門(同朝の宮殿都市の南門)から南の死者の町を貫く通り沿いに建設された。近傍には、シャジャル・ドゥッル廟など13世紀後半に建設された廟が多い。ドームをいただく墓室の両脇に細長い部屋をもち、キブラ軸手前の横長の前室という4室から構成される。前室は円柱を挟んだポーチとなり、前室の両脇、墓室および側室の5カ所にミフラーブを穿つ。ミフラーブはスタッコ装飾で、キール・アーチ(船底型のアーチのと放射状のリブが特徴的である。ドームも内外ともにリブ・ドームを用いる。
欧米語表記:sabil (fountain) アラビア語転写表記:sabīl
公共の井戸のこと。イスタンブルではセビル。乾燥地域が多い中東・北アフリカ地域では、旅行者・巡礼者のための井戸の整備が実用面の他にも、旅人を保護するという宗教的な慈善行為からも重要視されていた。カイロのサビールの多くは、ナイル川や運河から水を運び、地下の貯水槽に貯めて利用していた。マムルーク朝期からオスマン朝期・ムハンマド・アリー朝期にかけて、有力者による寄進(ワクフ)によって多くのサビールが建設された。
欧米語表記:sabil-kuttab アラビア語転写表記:sabīl kuttāb
一階部分に公共の井戸であるサビール、二階部分が読み・書き・クルアーンなどを教える初等教育機関であるクッターブを備えた複合慈善施設。給水施設のサビール(セビル)はイスタンブルやエルサレムなど他の地域にも見られるが、複合施設のサビール・クッターブはカイロで発展した特徴的な建築物である。マムルーク朝期から既存のモスクやマドラサの付属施設として建設され、後に単独の施設として建設されるようになった。特に17,18世紀のオスマン朝下のカイロ市内に多数建設された。
欧米語表記:Zengid Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Zinkīya (al-Dawlat al-Atābikīya)
ジャズィーラ(イラク北部)・シリアに勢力を広げた王朝。創設者のザンギーは、モスルを足がかりに、シリア北部にまで勢力を拡大した。彼の息子のヌール・アッディーンの時代には、シリアの統一と対十字軍戦争を行なった。また、当時部下であったサラーフ・アッディーン(サラディン)をエジプトに派遣した。ヌール・アッディーンの没後、ザンギー朝の領土の多くは、サラディンが建てたアイユーブ朝に吸収されていき、消滅した。
欧米語表記:Zisa (The Castello della Zisa)
パレルモに建設された12世紀のノルマン王国の宮殿建築で、アラブ・イスラーム建築の影響が顕著である。広大な庭園内に配された3階建の建物で、中央の主室は2層吹き抜けで、奥の斜め壁(シャディルヴァン)から水が流れ出して部屋を横切り、壁には棗椰子と孔雀等を描いたガラス・モザイクが挿入され、部屋の3方の凹みはムカルナスで飾られる。ちなみにジーザの名称は、アラビア語のダール・アズィザ(壮麗な場)に由来する。
欧米語表記:perforated stucco work
透かし細工は、素材の背面まで通じる部分を作ることによって、地と図を表現する技法で、残された素材部分とその間の空間部分から構成される。素材として漆喰板を用いたものを漆喰透かし細工と呼び、漆喰の板を模様に沿って糸鋸等で打ち抜くことによって、製作される。石に比べて容易く切り抜けるために、透かし高窓等に頻繁に利用された。中東のイスラーム建築においては透かし細工の素材としては、石、木、スタッコ、レンガなどが用いられ、木やレンガの透かし技法では、大きな素材を打ち抜くのではなく、小さな部品を集成する技法が用いられた。
欧米語表記:Shadirwan アラビア語転写表記:Shādhirwān
上質なカーテンや掛け布を指すペルシア語で、中世には傾いた壁から水が流れ落ちる滝状の装置を指すようになる。実例としては、パレルモのジーザ宮殿、あるいはマムルーク朝のサビール(給水施設)や邸宅の室内に設置されたものが残る。サファヴィー朝やムガル朝インドの実例もあり、広く普及した装置である。揚水装置によって水を高い位置にあげ、そこから傾斜する板上を水が流れ下るようにし他もので、板には凹凸の模様が彫り込まれ、水が模様を描く工夫がなされる。下り降りた水は水盤に溜められ、そこには噴水(ファスキア)が設置されることが多い。
欧米語表記:serpentine
建築装飾に使われる濃緑色の石。緑色の地に蛇の模様のような縞模様(白色等)が入った石で、緑色の装飾石材として効果的で、イスタンブルのハギア・ソフィアの内装ではイベリア半島産の蛇紋岩が使われた。マムルーク朝では、色のついた石を組み合わせて装飾する技法が発展し、白大理石とともに、濃緑色の蛇紋岩、濃赤色のポーフィリー、黄色のオニキスなどが多用された。エジプトでも蛇紋岩を産出するが、輸入材や古代建築の転用材もある。
欧米語表記:Crusaders アラビア語転写表記:Ḥamalāt Ṣalībīya
11世紀末から13世紀末まで断続的に行われた、西ヨーロッパ諸国による地中海東岸地域への遠征・植民活動。第1回十字軍(1096-99)では、聖地イェルサレムの奪還とシリアの地中海沿岸地域に領土を獲得することに成功した。しかし、イスラーム勢力からの反撃により徐々に領土を失っていき、1187年にはエルサレムを、1291年には最後の拠点のアッカーを失ったことで獲得した領土の全てを失った。この期間中、主にイタリア諸都市とシリア・エジプト地域との経済的・文化的交流が促進され、双方に影響を与えた。また、イスラーム勢力に対する軍事行動全般を、広義の十字軍とみなすことがある。
欧米語表記:Congregational Prayer/Friday Prayer アラビア語転写表記:Ṣalāt al-Jum'a
金曜日に行われるため、金曜礼拝とも言われる。金曜のズフル(昼)に大規模なモスク(ジャーミウ/金曜モスク)へと集まり、行われる。また、礼拝に先立って説教(フトバ)が行われるが、その際に支配者の名前が呼ばれることが通例となっており、住民に支配者が誰であるのかを知らせる意味でも重要であった。
欧米語表記:joist, beam, girder 別称:根太(ねだ)、梁、桁
建物の横架材(柱や壁の上に水平に架ける直線材)のことを指し、横架材によって、建物に屋根を架けることが可能となる。日本語では床を構成する場合には根太(ねだ)、天井や屋根を構成する場合には梁や桁と呼ぶ。なお、根太天井とは、上階の床組がそのまま下階の天井となったものを指す。
欧米語表記:Citadel of Cairo/Citadel of Saladin アラビア語転写表記:Qal'at Ṣalāḥ al-Dịn al-Ayyūb bil-Qāhira (Qal'at al-Jabal) 別称:サラディンの城塞
アイユーブ朝のサラディンによって、ムカッタムの丘陵に建設された城塞。サラディンは、十字軍に備えてカーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)とフスタート(アムルのモスクを中心とする南の市街地)を包み込む市壁を計画するとともに、軍事的基地としての城塞を建設した。城塞は北と南からなるが、アイユーブ朝にさかのぼるのは北の城塞で、マムルーク朝期に南への拡張が進み、南に諸宮殿やスルターン・ナースィル・ムハンマドのモスクが建設された。オスマン朝末期には南に宮殿等の諸施設が並び、北は軍人が住む市街となっていた。ムハンマド・アリー朝に城塞としての改築が進み、南の囲いのマムルーク朝の宮殿を壊してムハンマド・アリー・モスクが建てられ、北の囲いは市街を一掃してハーレムとなった。
欧米語表記:inlaid mother-of-pearl work
螺鈿細工とは、貝の内側の光沢層を象嵌した装飾技法を指す。美しい貝を小さく刻み、台となる素材に嵌め込み、表面を磨きだして模様を表現する。真珠を産する貝が光沢を持つことから、英語では真珠母貝細工と呼ぶ。カイロのマムルーク朝建築では、石製のミフラーブ(メッカの方角を示す建築装置)等に、細長い帯状や小さな幾何学図形に切り取った貝の破片を埋め込んだものが見られる。また、マムルーク朝初期には、ガラス・モザイクの中に、白い円形の貝殻をはめ込み、真珠を表現したものもある。象嵌の台となる素材は、石だけではなく木が象嵌の台となることもある。
欧米語表記:stucco, plaster
スタッコとは、水と砂に結合剤(石灰や石膏)を混ぜた建築材料で、形成しやすく乾燥すると非常に固くなるために、装飾材料として好んで用いられた。なお、日本の伝統的な壁に用いられた左官材料としての狭義の漆喰は、石灰岩を焼いて糊やスサを混ぜたものを指す。中東において、スタッコは造形の自由度から手の込んだ浮き彫り作品とすることが多いが、そのほかの装飾技法としては、彩色、打ち抜きなどもある。
欧米語表記:Stanied Glass
色ガラスを用いた窓装飾のことを指す。中東のステンドグラスは、ヨーロッパのゴシック建築で発達した鉛接合の技法とは異なり、アラベスク模様等を打ちいたスタッコ板の裏側に色ガラスを貼る技法を用いた。古くはシリアのラッカの宮殿跡からその一部が発掘され、アッバース朝期あるいはザンギー朝のものとされる。イエメンのサナアには透過性のある雪花石膏の板を貼り付けたものもある。マムルーク朝期には手の込んだステンドグラスが作られたが、その多くは現存せずに近代の修復作品に置き換わっている。
欧米語表記:span
建物の連続する柱、あるいはアーチにおいて、柱と柱の間、あるいはアーチの間の寸法を指す。柱を林立させて平面を作る場合、例えば、直線上に6本の柱を建てると5スパンが形成される。その直行方向に3本ずつの柱を加えれば、3スパンが形成されることになり、間口5スパン奥行3スパンの建築と呼ぶことができる。
欧米語表記:spandrel 別称:三角小間
矩形の中にはめ込まれたアーチを想定した場合、アーチによって切り取られた上部両脇の2つの部分(ほぼ三角形)を指す。この部分に対となる装飾を施すことも多い。
欧米語表記:Adil I (Ayyubd Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-'Ādil Sayf al-Dīn Abū Bakr Aḥmd b. Najm al-Dīn Ayyūb
アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーン(サラディン)の弟で、第4代アイユーブ朝スルターン。シリア方面への遠征を頻繁に行なっていた兄に代わってエジプトにおける政務を行い、また統治に対して助言を行うなど一族の中でも特に信頼されていた。サラディンの死後、当初はサラディンの息子たちを補佐していたが、対立が深まり、最終的に自身がエジプトとダマスクスを支配下に置き、他の王族に対する優位を示すためにスルターン位に就くことを宣言した。
欧米語表記:al-Masur Abu Bakr (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Abū Bakr b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマドの遺言によって即位するが、重臣との対立によって2ヶ月で失脚、上エジプトに流された後に殺害された。
欧米語表記:al-Ashraf Inal (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Sayf al-Dīn Abū al-Naṣr Īnāl al-'Alā'ī
後期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・バルクークに購入されて、彼の子飼いマムルークとなる。その後、バルスバーイの治世期の1428年にガザ総督に任命されたのを契機に、シリア各地の総督職を務め、1446年にはスルターンに次ぐ地位に就き、1453年のスルターン・ジャクマク死後の後継者争いに勝利して、スルターンとなった。彼の治世には、オスマン朝やアク・コユンル朝といった強大化する外部勢力への対応が問題となる一方で、内政は比較的安定していたと言われている。
欧米語表記:Madrasa of Sultan al-Kamil アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Kāmilīya
アイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(サラディン)の甥で第3代スルターン・カーミルがバイナル・カスラインの北側に建設したカイロで初めての2イーワーン式のマドラサ。シーア派のファーティマ朝にとってかわったアイユーブ朝は、11世紀末からセルジューク朝で推進されたマドラサを建設し、教学の場とした。マドラサの建築形式として、ペルシアを起源とする4イーワーン式や2イーワーン式は、12世紀のダマスクスやアレッポなどに導入され、13世紀になってカイロにまでその影響が及んだ。2イーワーン式は中庭の軸上に対峙するイーワーンを配したものである。
欧米語表記:al-Manṣūr Qalāwūn (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Qalāwūn al-Ṣāliḥī
前期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バイバルス1世の息子を退けて、自身がスルターンとなった。外部勢力との関係については、モンゴル軍に対しては専守防衛、十字軍に対しては積極的な攻勢を行なった。また、カイロのバイナル・カスラインに病院・マドラサ・廟からなる複合施設を建設した。
欧米語表記:al-Ashraf Qansuh al-Ghuri (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Qānṣūh al-Ghawrī
マムルーク朝の実質最後のスルターン(後期マムルーク朝第26代)。悪化した国家財政の再建、アナトリア東南部におけるオスマン朝、紅海・インド洋におけるポルトガルといった外敵への対処を行なった。しかし、ポルトガルには1509年に海戦で敗れたことによって、インド洋交易の主導権を奪われることとなった。さらには、1516年、オスマン朝に対応するためにスルターン自らシリア北部へ出陣したが、オスマン朝軍に敗れ、撤退途中に病死した。
欧米語表記:Madrasa al-Zahiriya (Damascus) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (Dimashq)
1277年にダマスクスで没したスルターン・バイバルス1世の廟を併設したマドラサ。ダマスクスのウマイヤ・モスクの近く、サラーフ・アッディーン(サラディン)の墓所の近くにあった住宅を宗教建築に改装したもので、バイバルスの息子バラカが1277年に着工した。完成前の1279年に、バラカも没し、父親とともにここに葬られた。工事が完成したのは、1281年スルターン・カラーウーンの治世においてのことであった。中庭は3つの部屋と柱廊からなり、墓室の壁には手の込んだ色石象嵌、ガラス・モザイクなどがふんだんに使われている。また入口の石造ムカルナスの下に3層のインスクリプションが刻まれ、建築家イブラヒム・イブン・ガナーイムの名が刻まれている。
欧米語表記:Madrasa of Sultan Zahir Baybars (Cairo) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (al-Qāhira)
1260年にスルターン位に即位したバイバルス(バイバルス1世)は、1262/3年にバイナル・カスラインに面して、アイユーブ朝のスルターン・カーミルのマドラサとスルターン・サーリフのマドラサの間に、マドラサを建設した。残念ながら19世紀末にほとんどの部分が撤去され、現在は南西隅の壁部分を残すのみである。マドラサに廟は併設されておらず、キブラ方向に長い中庭に4つの対面するイーワーンを配した4イーワーン式を採用した。
欧米語表記:al-Salih Najm al-Din (Ayyubid Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Najm al-Dīn Ayyūb
アイユーブ朝第7代スルターン。即位に際して、アイユーブ家の中で内紛が起きたが、十字軍と同盟したアイユーブ家の王族に勝利して、エルサレムとダマスクスの占領に成功した。また1248年には、フランスのルイ9世がエジプトに侵攻して来たために出陣したが、その陣中で没した。治世を通じて、十字軍、他のアイユーブ家への対抗のために軍事力強化、特にマムルーク軍団の拡充に努め、そのマムルーク軍団がマムルーク朝創建の中核となった。
欧米語表記:Salihiyya Madrasa, Madrasa of Sultan Salih Negm al-Din アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ṣāliḥīya
アイユーブ朝第4代スルターン・サーリフが1243年に着工したマドラサ。父カーミルが建設したマドラサに隣接する。入口通廊の両側に、2イーワーン式の建築を2棟並べて、4イーワーンのマドラサとした。サーリフが1249年に死去したのちに、妻でありマムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥルがサーリフの墓を北西の隅に付設した。カイロにおける宗教複合施設として、寄進者の墓を含む最初の例となった。マムルーク朝期にはこのマドラサは4法学派の裁判所として機能し、サーリフの廟は王朝の儀式に使用された。現在は、廟、ミナレットのある入口、北側のマドラサの一部が残る。
欧米語表記:al-Salih Salih (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Ṣalāḥ al-Dīn Ṣāliḥ b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第23代スルターン。アッサーリフ・サーリフとして知られる。スルターン・ナースィル・ムハンマドと有力アミールのタンキズ・アルフサーミーの娘クトゥルマリクの間に1337年に生まれる。有力アミールの権力闘争の結果、兄のスルターン・アンナースィル・ハサンが廃位され、スルターン位に就いた。有力アミールのシャイフー、サルギトシュ、ターズによって実権が握られていたが、ターズがサーリフの権威を利用し、他の二者を退けようとした結果、逆にシャイフーとサルギトミシュによりサーリフは廃位され、兄のハサンが復位し、ターズは失脚した。
欧米語表記:Mausoleum of Sultan Shajar al-Durr アラビア語転写表記:Ḍarīḥ Shajar al-Durr
アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの妻であり、マムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥッル(在位1250年)の墓建築で、夫の死後マムルーク朝の君主に3ヶ月だけ着位した。本来はマドラサ、ハンマーム、宮殿等の複合施設という記録があるが、現在は廟と後世のハンマームの遺構だけが残る。廟は正方形の部屋にドームを架けたキャノピー墓で、断面形がキール・アーチ(船底アーチ)となるドームが特徴的である。内部のミフラーブにはガラス・モザイクが用いられ、真珠の木という彼女の名前を表すかのように、金色の地に、アラベスクの植物模様の合間に真珠母貝の白い円が散りばめられている。
欧米語表記:al-Nasir Muhammad b, Qalawun (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Ṣulṭān al-Malik al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣaur Qalāwūn
前期マムルーク朝のスルターン(第10,13,15代)で、スルターン・カラーウーンの息子。兄のスルターン・ハリール(第9代)の死後に幼少で擁立されたため、当初は権力基盤が弱かったが、3回目の即位後は政敵を排除して、安定した治世を実現した。対外的には、対モンゴル関係を安定化させ、対内的には全領土を対象とした検地(ナースィル検地:1313−25年)を実施し、イクター制をとおした軍人による農村支配体制を整備し、独裁的な権力を握るにいたった。対外的な安定と、紅海と地中海をむすぶ通商路の安定により、後期を含めたマムルーク朝時代の最盛期が現出した。
欧米語表記:Mosque of Sultan Nasir Muhammad (al-Mu'izz st.) アラビア語転写表記:Masjid wa Madrasa al-Sulṭān al-Nāṣir Muḥammad (bi-Shāri' al-Mu'izz lil-Dīn Allāh)
スルターン・キトブガーによって1294年に建設が始まり、スルターン・ナースィル・ムハンマドの時代に入った1303年に完成した廟付きのマドラサ。廟にはナースィル・ムハンマドの母アシュルーンと息子のアヌーク(1340年没)が葬られ、ナースィル・ムハンマド自身は父カラーウーンの廟に葬られた。廟のドームは現在も崩壊したままであり、平天井で塞がれている。マドラサは、4イーワーン式であり、礼拝室と向かい合うイーワーンは平天井、副軸上はトンネル・ヴォールトとなっている。ミナレットとマドラサ礼拝室にあるのミフラーブ、および礼拝室と対面するイーワーン奥部のスタッコ装飾が見事であり、特にミフラーブのコンチ内部の装飾はイル・ハーン朝のスタッコ細工と類似する。入口部分は、キトブガーが十字軍との戦いに遠征した際に、アッカーから持ち帰った教会堂の入口であり、ゴシック様式である。
欧米語表記:al-Muzaffar Baybars (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Muẓẓafar Rukn al-Dīn Baybars al-Jāshankīr
前期マムルーク朝第14代スルターン。カラーウーンのマムルーク出身のアミールで、カラーウーン息子のスルターン・ナースィル・ムハンマドの退位に伴ってスルターンに即位した。しかし、即位後は他のアミールとの権力闘争に追われ、さらに復権を果たしたナースィル・ムハンマドがシリアを制圧したことを契機に逃亡した。彼がカイロに建設したスーフィーの修道場である、バイバルスのハーンカーが有名である。
欧米語表記:al-Nasir Hasan b. al-Nasir Muhammad (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Nāṣir Badr al-Dīn al-Ḥasan b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第22、24代スルターン。ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマド没後に弱体化したスルターンの権力の回復を目指して、マムルーク以外の勢力の登用を行なったが、その途中で殺害された。マムルーク朝期最大の建築物であるスルターン・ハサンの複合施設を創建した。
欧米語表記:al-Zahir Barququ (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ẓāhir Sayf al-Dīn Barqūq
後期マムルーク朝の初代スルターン。カラーウーンとナースィル・ムハンマドの子孫によるスルターン位の継承を終焉させ、自らスルターンに即位した。当時問題となっていた財政問題の解決のために、スルターンの直轄財源の拡充などをおこない、支配体制の改革を行った。
欧米語表記:Complex of Sultan Barquq アラビア語転写表記:al-Majmū'at al-Sulṭān al-Ẓāhir Barqūq
チェルケス・マムルーク朝の開祖であるスルターン・バルクーク(在位1382–89, 1390–99)の廟を含む複合施設。バイナル・カスラインに面し、スルターン・ナースィル・ムハンマドの複合施設と隣接する形で建設された。建築家はシハーブ・アッディーン・アフマド・イブン・ムハンマド・トゥールーニーと記され、アミールのジャルカスィー・ハリーリーが監督を務めた。マドラサは4イーワーン式で、礼拝室は、カラーウーンのマドラサと同様に円柱で3廊に分割されている。円柱は側面に近い位置に並び、17.6メートル四方ある中央の部分は豊かな装飾の平らな天井で覆われる。他の3つのイーワーンはトンネル・ヴォールトで覆われている。一方、現在墓建築を覆うドームはレンガ造だが、本来は木造で、移行部は現在も木製である。建物の奥の西側には小室群があり、学生居室やスーフィーの居室に使われた。
欧米語表記:Khanqah of Sultan Faraj Ibn Barquq アラビア語転写表記:Madrasa wa Khānqāh al-Nāṣir Faraj b. Barqūq
スルターン・バルクークの息子であるスルターン・ファラジュの大規模な宗教複合施設で、カイロ城塞の東側に広がる墓地に建設された。東側の墓地には、14世紀半ば以後オスマン朝に至るまで多くの墓建築が建設された。この建築は、広大な中庭の周囲のキブラ側(南寄りの東)に多柱礼拝室、その両側に廟の大ドームを配する対称的なデザインとなっている。父のバルクークは、この複合施設内北側の墓室に葬られた。南側のドームには女性たちが葬られている。なお、中庭を囲む周廊の背後には居住施設としての小室が多数配されており、スーフィーたちの居室として用いられた。
欧米語表記:al-Mu'ayyad Shaykh (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Mu'ayyad Abū al-Naṣr Shaykh al-Maḥmūdī
後期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バルクークによって購入されたマムルーク出身で、バルクークの息子であるスルターン・ファラジュ治世期の1400年にシリアのトリポリ総督に任命され、以後12年間シリア各地の総督職を歴任した。その後、他のアミールと結託してファラジュに反旗を翻し、勝利を納め、最終的に自身がスルターンに即位した。治世中は、シリア、アナトリア南東部などでの反乱の発生、食糧不足や疫病の発生といった問題への対応に追われた。
欧米語表記:al-Mansur Lajin (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Ḥusām al-Dīn Lājīn al-Manṣūrī
前期マムルーク朝第12代スルターン。支配基盤を固めるために、マムルーク朝初となる検地(フサーム検地)を行い、イクターの再配分を行なった。しかし、その再配分がスルターンとその直属の部下に偏っていたことが不満の種となり、反対勢力によって暗殺された。また、カイロのトゥールーン・モスクの大規模改修とワクフの設定を行なったことでも有名である。
欧米語表記:red granite 別称:桜御影
白、黒、ピンクなどの部分からなる花崗岩の中で、赤い色合いの強いものを指し、アスワン地方に多く産出する。エジプトではファラオ時代から愛好されており、クフ王のピラミッドの墓室など重要な箇所に用いられた。マムルーク朝期には、色のついた石を並べた装飾において、ポーフィリーと共に赤色部分に使われた。またファラオ時代の赤色花崗岩製の円柱が、マリダーニー・モスク、城塞のスルターン・ナースィル・ムハンマドのモスク、スルターン・バルクークのモスクなどに転用されている。
欧米語表記:porphyry,
古代ギリシア語で紫を意味し、目の詰まった赤紫色の赤色斑岩のことを指す。見た目は、アスワン近郊で産する赤色花崗岩の中に類似するものもあるが、目が細かく赤黒い。その産地はハルガダ近郊の東砂漠にあり、ローマ時代に掘削が進んだ。色彩の美しさゆえに古くから珍重され、レバノンのバールベック神殿に使われた柱が、ハギア・ソフィア建設の際に運ばれ、内陣部に配置されたとされている。マムルーク朝時代には、色のついた石を装飾的に配置する際に好んで使われ、その多くは転用材である。
欧米語表記:cenotaph
遺体が埋葬されていない棺、ひいては棺型の墓石を指す。イスラーム建築においては遺体は土中あるいは地下室に安置され、墓建築の中には棺型の石棺を墓石として設置することが通例である。石製、木製、レンガ造スタッコ塗りなどがあり、大きさにも決まりはなく、小さいものから大きく長いものまで様々である。背のタフの周囲に彫刻を施したり、装飾的な墓碑を加えることもある。
欧米語表記:semi dome 別称:半ドーム
半球ドームにおいてその頂点を通る垂直面で切りとられた球面を指し、狭義には球面の4分の1の形となる。建物の入口、あるいは広間の凹部などの天井を覆う球面状のヴォールト(曲面天井)となるため、高さ方向や奥行き方向の歪みをもつものも総称してセミドームと呼ぶことが多い。古くはキリスト教会堂のアプス(内陣奥部の半円形の凹み)に使われ、ウマイヤ朝の宮殿建築はその影響を受けた。マムルーク朝では、多くの場合は移行部(基部の矩形からドームの円形に達する部分)のムカルナス等が主流となるため、セミドーム面は小規模化するが、スルターン・バイバルス2世のハーンカーの入口には、比較的大きな実例がある。
欧米語表記:Seljuk Dynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Saljūqīya
10世紀後半にイスラームへ改宗したトルコ系遊牧民によって建てられた王朝。故地である中央アジアから、他の王朝を破りながら西進を行なった。その後、トゥグリル・ベクは1055年にバグダードに入城して、アッバース朝カリフより史上初めて「スルターン」の称号を受け、東方イスラーム世界における支配者として公認された。セルジューク朝ではスンナ派振興政策が行われ、各地にマドラサ(ニザーミーヤ学院)が建設された。しかし、マリク・シャー没後には、後継者を巡って激しい内紛が起きるようになり、王朝の領土は分裂した。サンジャルの時代に一時再統一されたが、再び分裂しオグズやホラズム・シャー朝により滅ぼされた。
欧米語表記:tie bar
鉄や木の部材でアーチの下部を結び、アーチが外へと開こうとするのを防ぐ役割をもつ。カイロのイスラーム建築では、アムル・モスクやアズハル・モスク、ファーティマ朝期のアクマル・モスクやサーリフ・タラーイー・モスクにおいても確認できるが、これらの部材が創建当初のものかは明らかではない。アーチやドームには外へ開こうとする力(スラスト)が加わるため、それを抑えるための建築的な工夫がなされた。タイバーもその一つであり、同様な役割をもつものとしてその重量によってスラストを抑えるバットレス(控え壁)がある。
欧米語表記:marble mosaic
モザイクとは小片を集成して図柄を表す装飾技法をさし、小片として大理石を用いたものを大理石モザイクという。ただし、大理石は狭義の石灰岩の変成岩だけではなく、鮮やかな色の石を含み、また石の場合は小片を寄せ集めて集成するだけでなく、母岩に小片を象嵌した技法も総称する。マムルーク朝建築においては、床や腰壁(人の背くらいまでの壁の下部)を飾る大まかな細工から、ミフラーブ等を飾る詳細な細工まで様々である。前者の中には、当時イタリアから運ばれたものもある。また、後者においては、青いファイアンスや真珠母貝などをその部品として用いることもある。
欧米語表記:tiraz アラビア語転写表記:ṭirāz
ペルシア語の刺繍から派生した言葉で、本来は、初期イスラーム時代に特長的な帯状の銘文刺繍、あるいは帯状の銘文をもつ織物をさした。のちに、建築のファサード等の銘文帯をも指すようになった。ここでは建築に用いられた帯状のアラビア文字装飾を指す。特に、カラーウーン複合施設のファサードを飾るティラーズは著名である。
欧米語表記:dome
半球形の屋根を指す。その出現はイスラーム以前にさかのぼるもので、イスラーム建築では墓建築あるいはモスクの中心軸上など、建築的に強調したい部分に用いられ、各地特有の発展を遂げる。特に、四角い部屋に円形断面のドームを架けるには工夫が必要で、地域ごとの特色をもつ多様な技法が生まれ、高く大きく装飾的なドームが建立された。なお、四角形のへ部屋の部分を基部、ドームとの間の部分を移行部と呼ぶ。マムルーク朝のドームは、14世紀半ば頃まではレンガ造であったが、次第に石造ドームへと置き換わっていった。内部の移行部にはムカルナスを使うことが好まれ、ドーム外観はリブの模様をつけることから次第に発展し、15世紀末には幾何学模様やアラベスクを描くものも現れた。14世紀中葉のスルタニエには二重殻ドームがみられるが、通常は単殻ドームで、高さ方向を増していく傾向を指摘できる。
欧米語表記:tunnel vault, barrel vault 別称:蒲鉾型天井
トンネル型の天井を指す。エジプトではファラオ時代にすでにこの技法が確認できる。しかし、カイロのイスラーム建築においては、アイユーブ朝期までは大規模な実例を確認することができず、13世紀前半にマドラサ等の施設とともにペルシアの影響から建設されるようになったと推察される。14世紀半ば頃まではイーワーン(大きなアーチを開口させる開放的広間)の天井に使われていたが、次第に平天井となり、トンネル・ヴォールトは通廊の天井など小規模な部分に適応されるようになった。
欧米語表記:Napoléon Bonaparte (Napoléon Ier)
フランス第一帝政の皇帝。彼はイギリスとインドとの連絡を絶つことなどを目的として、1798年にエジプトへ上陸した。カイロを占領してシリア地域にも進軍したものの、本国での政情の急変を受けて彼自身は翌年フランスへ戻り、フランス軍によるエジプト占領も1801年には終了した。
欧米語表記:niche, alcove, recess 別称:アルコーブ、凹部
部屋の壁を凹ませた部分を指す英語で、上部にアーチを架け、内部に彫像などを置くことが多い。イスラーム建築においては、モスク等でメッカの方角を指し示す装置(ミフラーブ)がニッチの形を取る。同様な部分を示す言葉としてアルコーブも使われるが、アルコーブの方がより大きな空間を指す傾向がある。
欧米語表記:joist ceiling
根太は床に架ける水平材(横架材)をさし、部屋の幅の材料(根太)を数十センチメートルおきに渡して、その上に床をはる。上階の床を構成する構造的な根太がそのまま下階の天井に姿を現しているものを根太天井という。日本の木造建築では、天井は構造材から吊り下げられる形となり、根太天井はそれほど多くない。しかし、中東の建築においては、屋根や上階の床がそのまま下階の天井となることが多いので、平らな天井の場合は根太天井であることが多い。民家等において屋根や2階の床を作る際には、棗椰子の幹を横架材(根太)とし、その上に棗椰子の葉で編んだマットを敷き、土をのせて床とする。これも一種の根太天井である。
欧米語表記:Norman Architecture (Sicily)
東ローマ帝国の支配下にあったシチリアは、827年にチュニジアを拠点としたアグラブ朝の支配下に置かれ、その後11世紀後半までの約250年間はイスラームの支配が続いた。ノルマン人の活動により、12世紀前半にはノルマン王国が成立する。このような過程で、イタリア半島とチュニジアを結ぶシチリアには、ノルマン王国の元の12世紀に、アラブ・イスラームの要素とビザンティン・中世イタリア・キリスト教の要素が入り混じった特異な建築様式を作り出した。アラブ・ノルマン様式とも呼ばれ、建築実例としては、パレルモのパラティーナ礼拝堂、ズィーザ宮殿、パレルモのカテドラル、モンレアレのカテドラル、チェファルの大聖堂などがあり、2015年に世界遺産に登録された。
欧米語表記:Khanqa アラビア語転写表記:Khānqāh
スーフィーのための施設・建築物の名称。ペルシア語起源の言葉で、元々は中央アジアで使われていたで用いられていたが、セルジューク朝の西方進出に伴ってエジプト・シリアでも使われるようになった。カイロでは、特に有力者・スルターンが建設した大規模なスーフィー向けの修道場をハーンカーと呼び、より小規模な修道場はザーウィヤなどと呼ばれた。
欧米語表記:Basillica
東ローマ帝国の支配下にあったシチリアは、827年にチュニジアを拠点としたアグラブ朝の支配下に置かれ、その後11世紀後半までの約250年間はイスラームの支配が続いた。ノルマン人の活動により、12世紀前半にはノルマン王国が成立する。このような過程で、イタリア半島とチュニジアを結ぶシチリアにおいて、アラブ・イスラームの要素とビザンティン・中世イタリア・キリスト教の要素が入り混じった特異な建築様式が創出された。この様式は、アラブ・ノルマン様式とも呼ばれ、建築実例としては、パレルモのパラティーナ礼拝堂、ズィーザ宮殿、パレルモのカテドラル、モンレアレのカテドラル、チェファルの大聖堂などがあり、2015年に世界遺産に登録された。
欧米語表記:horse-shoe arch
円の半分は半円となり半円アーチはこの形を使うが、上部の半円よりもさらに下部の半円の一部を含む部分、すなわち馬蹄の形のものを半円馬蹄形アーチという。半円ばかりでなく、尖頭形アーチにおいてもアーチの最大幅から下方でさらに幅を狭めた場合は馬蹄形アーチとなる。また、平面上のニッチやアルコーブ(壁の凹部)の場合も、半円よりも大きな範囲を囲む場合は馬蹄形となる。コルドバのメスキータのミフラーブ(10世紀)は、平面にも立面にも馬蹄形アーチを使った好例である。馬蹄形アーチは、アンダルシアやマグリブなど地中海西方の建築に顕著である。
欧米語表記:Cappella Palatina
パレルモのノルマン宮殿に1132年に併設された教会堂。ノルマン建築の教会堂に共通する三廊式で、東端部にドームを挿入して広くとる形式で、中央と両脇に半円形のアプス(凹部)をもつ。身廊の天井は木造のムカルナスで、曲面や星型を囲む帯状の部分にはクーフィー書体のアラビア語でインスクリプションが描かれている。床は、色石をモザイク状に敷き詰めており、ベイごとに幾何学模様で分節され、内陣部には円形の模様が使われ、腰壁も色石張りとなっている。ビザンティン建築との共通性は、ガラス・モザイクとその題材などがあげられるが、イスラーム建築との共通点も多い。
欧米語表記:pier
建築を支える構造的な垂直部分を指し、コラム(円柱)に比べて断面が大きく、壁と一体化している。例えばカイロのイスラーム建築の早い例ではイブン・トゥールーン・モスクやハーキム・モスクにおいてはピアが使われ、アムル・モスクやアズハル・モスクにおいてはコラムが使われる。
欧米語表記:Hieroglyph
古代エジプトの文字の一種で、建築物などに刻まれた。マムルーク朝期のエジプトでは、モスク等の建物の正面扉口の下の敷石にヒエログリフが刻まれた石を用い、上の楣(まぐさ)石に数色の大理石を組み合わせるなど装飾的な石を用いた例が散見される。
欧米語表記:Byzantine Architecture 別称:ビザンツ建築
ビザンティン建築は、330年に成立し1453年まで続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下の領土の建築を指す。ただし、その領土の広がりと国力からも、イスラームの勃興前後に分けて考える必要性がある。イスラームが起こる以前の地中海周辺のキリスト教建築を初期キリスト教建築と呼び、その概念は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに作られた初期ビザンティン建築の代表とも言えるハギア・ソフィアなども含む。初期ビザンティン建築をも含む初期キリスト教建築では、モザイクなど古代ローマの伝統が継承されると同時に、東方からの影響の下でドームが発展した。イスラームの勃興以後、東ローマ帝国は、アナトリア半島から東ヨーロッパに縮小し、ガラス・モザイクなどの技法を継承し、小型ながらドームを中心とした特有の教会堂形式を創出した。
欧米語表記:pish taq (entrance arch)
ペルシア語に由来し、イーワーン等の大アーチの外側を囲む高く立ち上がった壁部分を指す。イランや中央アジアでは、ピシュタークが一段高く立ち上がることが通例で、カラーウーンのマドラサの礼拝室とそこに向かい合うイーワーンはその一例である。カイロではスルターン・ハサンの4つのイーワーンように壁の高さが等しくなる例が多く、ピシュタークが立ち上がる例は少ない。
欧米語表記:mausoleum アラビア語転写表記:ḍarīḥ/turba 別称:墓建築
墓の上に建設された建物(墓建築)を指す。イスラームのハディースには墓石や墓碑を建てることを禁じているが、メディナにある預言者ムハンマドの墓をはじめとし、高位高官の墓や聖者などの墓は建築物を伴うようになった。マムルーク朝建築においては、スルターンやアミールたちは自身の廟を建てる際に、モスク、マドラサ、ハーンカー等の宗教施設を併設し、公共の福祉に寄与しながら、自身の墓が永続することを願った。
欧米語表記:flat ceiling, flat roof
平らな天井を指す。通常は水平の横架材を渡し、その上に平らな面を構築するので、根太天井となる。
欧米語表記:Fattimid Daynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Fāṭimīya
シーア派の一分派であるイスマーイール派が建てた王朝。イフリーキヤ(現在のチュニジア周辺)のベルベル人の支持を受け、その軍事力によって北アフリカにおいて勢力を拡大した。969年には、エジプトを征服して、新たな都市カーヒラ(カイロ)を建設して遷都した。最盛期には、北アフリカの全域、シリア、アラビア半島に勢力を拡大したが、後期には、内乱・天災などの内憂、他のイスラーム王朝や十字軍との争いという外患に悩まされ、最終的には、ワズィール(宰相)職に就いていたサラーフ・アッディーン(サラディン)によって建てられたアイユーブ朝に取って代わられた。
欧米語表記:Mausoleum of Fatima Khatun, Mausoleum of Umm Salih アラビア語転写表記:turbat Fāṭima Khātūn, turbat Umm al-Ṣāliḥ 別称:ウンム・サリーフ廟
1283年に創建された、スルターン・バイバルス1世の妻であるファーティマ・ハトゥン(1284年没)の廟。マドラサと共に建てられ、マドラサの入口部分とミナレットは現存している。廟は方形のドーム室であるが、通廊と前室をもつ。この廟と、スルターン・カラーウーンの廟(1284年)、アシュラフ・ハリール廟(1288年)はいずれもスルターン・カラーウーンが関与したとされるドームで、その外観に同様の八角形のドラム(ドームと基部をつなぐ部分)を持つ。このため、カラーウーン廟の復元の際にはハリール廟の外観が採用された。しかし、内部の移行部(基部の方形断面とドームの円形断面をつなぐ部分)は、それぞれ異なっている。3者に共通する点は円形のモチーフを多用する点で、特に前2者では2連アーチの上部に円形を設け、それらを囲むアーチというモチーフが共通する。このモチーフは、イベリア半島、南仏、イタリア半島のロマネスク建築との関連を示唆する。
欧米語表記:faience
近世ヨーロッパの錫釉陶器をさし、イタリアの焼物産地ファエンツァに由来する。その後、古代エジプト特有の青い焼物を同じくファイアンスという言葉で呼ぶようになった。
欧米語表記:facade
建物の正面外観(立面)のことをファサードという。
欧米語表記:complex
機能を異にする建物を一つの施設として同時期に建設されたものを指す。例えば、カラーウーンの寄進施設は、マドラサ、廟、病院からなる複合施設である。なお、複合施設の中には、スルターン・ハサン・モスクに併設された孤児院や救貧施設などのように、一部の施設が消失し、現存していないものもある。マムルーク朝やティムール朝にもよく見られるものであるが、特にオスマン朝治下のイスタンブルにおいて数多く建設され、トルコ語でキュッリイェと呼ばれるようになる。
欧米語表記:freeze
西洋建築史の用語で、古代ギリシア・ローマ建築の柱の様式において上部のエンタブラチュア(柱上の水平部分)を構成する要素の一つで、下からアーキトレーブ(主梁)、フリーズ、コーニス(軒蛇腹)から構成される。これから派生して、装飾を伴う水平帯も、フリーズと呼ばれるようになる。
欧米語表記:fringe, border, edging 別称:連続縁(ふち)装飾
線状の縁や繰形(モールディング)を多数並べた房のような装飾。ミナレットや墓塔などに彫られる、帯状の浮き彫り(断面が角形や円形となる)を指す。デリーのクトゥブ・ミナールが代表的な例であるが、カイロの城塞にあるスルターン・ナースィル・ムハンマドのモスクのミナレットなどにもフリンジ装飾が見られる。なお、ドームの外側に同様の装飾を施したものをリブ・ドームと呼び、カイロのマムルーク朝建築においては、サルガトミシュの複合施設やタグリー・ビルディーの複合施設のドームに見られる。
欧米語表記:bay
柱を林立させた多柱式建築において、近接する柱に囲まれた部分を指し、普通は四角形平面となる。日本語では間(けん)が相当し、日本建築では間口X間奥行Y間の建物と表現する際などに用いる。
欧米語表記:pendentive vault
曲面天井の一種。矩形の頂点に配された4本の柱に掛かる4つのアーチから連続的な球面としたものを指す。幾何学的には半球面に対して、半球を投影した円形に、内接する正方形を描き、正方形に垂直な面で切り取ったときにできる曲面となる。その際の切断面は半円アーチとなるので、その4つの頂点を結ぶと上部に縮小された円ができる。この作業によって、上部の円から4つの三角形状の曲面ができるため、ペンデンティブ(垂れ下がる三角形、逆三角形)技法と呼ばれる。
欧米語表記:border
壁面を分割する装飾において、一つの単位となる文様の周囲を囲む帯部分を指す。絨毯等の外周を囲む帯をも指す。ボーダーをつけることによって、内部に囲まれた模様を引き立たせる効果を狙ったものである。
欧米語表記:burial (Islam)
埋葬は宗教上の慣習に則って行われる。まず、近親者が遺体をお湯で拭き、白い布で包む。その後、遺体は棺に入れられて運ばれ、遅くとも数日以内には埋葬される。埋葬の際には、遺体は仰向け、もしくは右脇腹を下にして、顔をメッカの方角に向けて安置する。埋葬方法は必ず土葬であり、火葬は火獄を連想させるため忌避されている。
欧米語表記:al-Maqrizi, Taqi al-Din Abu al-Abbas Ahmad b. 'Ali b. 'Abd al-Qadir b. Muhammad アラビア語転写表記:al-Maqīizī, Taqī al-Dīn Abū al-'Abbās Aḥmad b. 'Alī b. 'Abd al-Qādir b. Muḥammad
カイロ出身のウラマー(イスラーム知識人)であり、マムルーク朝期を代表する歴史家。マドラサの教授職やムフタスィブ(市場監督官)といった役職を勤めたが、後半生は著作活動に集中した。彼の著作は、同時代に襲った飢餓、ペストの流行、政情不安といった社会情勢を記すだけでなく、それらの事象に対する批判・分析や解決策の提示を行なった点で特筆される。主要な著作にはエジプト誌を集成した『街区と遺跡の叙述による警告と省察の書(al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār bi-Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār)』(通称:マクリーズィーのエジプト誌 Khiṭaṭ al-Maqrīzī)や、年代記の『諸王朝知識の旅(Kitāb al-Sulūk li-Ma'arifa Duwal al-Mulūk)』などがある。
欧米語表記:madrasa
主にイスラーム諸学を教える寄宿制の高等教育施設。9世紀のホラーサーン(イラン北東部)地方を発祥として、11世紀後半にはセルジューク朝によって治下の主要都市に建設されるようになった。エジプトでも、特にアイユーブ朝期以降盛んに建設されるようになり、マムルーク朝期はエジプトにおけるマドラサ建設の最盛期であった。
欧米語表記:Mamluk Daynasty アラビア語転写表記:Mal-Dawlat al-Mamālīk
白人軍事奴隷であるマムルーク出身者による王朝。もともと仕えていたエジプトのアイユーブ朝に対してクーデターを起こすことで政権を獲得した。そのため、誕生当初は既存勢力にその正統性を疑問視されていたが、侵攻してきたモンゴル軍の撃退、メッカ・メディナ両聖都の支配、亡命してきたアッバース朝カリフの保護と擁立などを通じて「スンナ派イスラームの擁護者」として政権基盤を確立した。支配体制、マムルークの出身民族の違いから、キプチャク系トルコ出身のマムルークとその子孫が中心である前期をバフリー・マムルーク朝(1250-1382年)、コーカサス地方出身のマムルークが中心である後期をチェルケス・マムルーク朝(1382-1517年)と区分するのが一般的である。1517年にオスマン朝によって滅ぼされた。
欧米語表記:minaret アラビア語転写表記:mu'adhina/manār 別称:光塔
アラビア語の光(ヌール)あるいは火(ナール)から派生したマナーラが英語に入った言葉で、日に5回の礼拝への呼びかけ(アザーン)を呼びかけ人(ムアッズィン)が行う塔を指す。エジプトでは、アザーンの場所という意味からマアザナと呼ばれることも多い。ドームと並んで建物の外観を強調する重要な要素となり、工夫を凝らして飾られた塔には、地域や時代の特色が現れる。マムルーク朝においては、途中のバルコニーごとに断面形を変化させ、頂部に宝珠をいただく石造のミナレットが発達した。
欧米語表記:mihrab アラビア語転写表記:miḥrāb 別称:壁龕
イスラーム教徒は礼拝の際にはメッカの方角に向かうため、モスクや墓等の宗教施設にはメッカの方角を示す装置が設置され、それをミフラーブと呼ぶ。アーチの形をしたものがほとんどで、平らな壁に作られたアーチの場合もあるが、壁に凹部を作って立面をアーチとすることが好まれた。ミフラーブの数は決まっておらず、一つのモスクに一つとは限らないが、マムルーク建築においては、単一のミフラーブが礼拝室の中央壁装飾の焦点となることが一般的で、色の付いた石や象嵌細工を組み合わせる装飾技法が用いられた。
欧米語表記:minbar アラビア語転写表記:minbar 別称:説教壇
金曜日の昼の礼拝の際に導師(イマーム)が説教(フトゥバ)を行う大モスクに備えられた階段状の壇を指す。マムルーク朝では木製のミンバルが一般的ではあるが、アークスンクル・モスクやスルターン・ファラジュのモスクには石造のミンバルがある。なお、同様な高台の装置として、礼拝室の中央部に設置された高い壇(ディッカ)があり、集団礼拝の先導のために使われた。
欧米語表記:Mu'izz street アラビア語転写表記:shāri' al-Mu'izz lil-Dīn Allāh
カイロ旧市街の北の門であるフトゥーフ門からアズハル通りに至るまで、カイロ旧市街を南北に貫く約1キロメートルの通り。この通りには、ファーティマ朝カリフの東宮殿・西宮殿と、その間に広がる中央広場があった。この広場は、「2つの王宮の間」という意味のアラビア語で「バイナル・カスライン」と呼ばれた。その後、ファーティマ朝王宮の跡地には、アイユーブ朝、マムルーク朝期を通じてスルターンや有力者によって多くの宗教施設が建設され、中央を南北に貫く通り(現在のムイッズ通りの一部)も整備されて、現在に至っている。
欧米語表記:muqarnas, stalactite, honey comb vault アラビア語転写表記:muqarnaṣ 別称:鍾乳石飾り、蜂の巣天井
イスラーム建築で使われる持ち送り構造の装飾の一種。イスラーム建築で特異に発展した建築装飾技法で、小さなアーチで縁取られた小曲面を水平方向に並べ、さらに垂直方向に重ねることによって構成される。有機的な構成に見えるが、その配置法は平面幾何学に則っている。マムルーク朝においては、ドームの移行部と入り口セミドーム部分をムカルナスとすることが定着した。
欧米語表記:muqarnas cornice
ファサードのコーニス(軒)部分に設置されたムカルナスを指す。最上部の連続するコーニスを飾る場合と、その下の窪み上部の直線部を飾る場合がある。また、ミナレットのバルコニー部分にもムカルナスが用いられた。
欧米語表記:Mezquita (Mosque and Cathedral of Cordoba) アラビア語転写表記:Miskītā (Kātidurā'īya - Jami' Qurṭuba
一般的な用語としては、モスク(イスラーム教徒の礼拝所)を意味するスペイン語であるが、特に後ウマイヤ朝のコルドバの大モスクを指すこともある。コルドバの大モスクは、784年にアブドゥル・ラフマーン3世が着工し、その後1236年のコルドバ陥落まで、モスクとして度重なる増改築を重ねた。中でも10世紀後半のハカム2世の増築では、ガラス・モザイクでミフラーブの周辺が美しく飾られた。キリスト教会堂になってからも改築は続き、16世紀には多柱室の中に十字形の教会堂が挿入された。コルドバのカテドラルのようにキリスト教会堂に転用・改造されたものは限られ、多くはセビリアのカテドラルのように、モスクの敷地に新たな教会堂が建設された。
欧米語表記:medallion
円形の建築装飾を指す。アーチのスパンドレル(アーチ両肩の三角小間)と対になるように使われる例は、広くイスラーム建築に見受けられる。カイロでは、アズハル・モスクの中庭ファサードにおいて、アーチの頂部に配置されたメダイオン装飾を見ることができる。その後、ファーティマ朝のアクマル・モスクにも同様なメダイオン装飾が見られ、マムルーク朝期には壁面だけではなく、床面等の様々な箇所に、様々な分割法でメダイオンの装飾が挿入された。特にカラーウーンの寄進施設では円形装飾の使用頻度が高く、アーチとの組み合わせ、病院の窓装飾などは、幾何学的構成の高度さを示す実例である。
欧米語表記:Mecca アラビア語転写表記:Makka 別称:マッカ
アラビア半島西部にある預言者ムハンマドの出身地であり、イスラーム第1の聖地。イスラーム誕生以前は、中継貿易によって繁栄した商都であった。イスラーム勢力による占領後、カーバ神殿にあった偶像は破壊されて、イスラームの聖域に変えられた。メッカへの巡礼は、イスラーム教徒の内その能力があるもの全員に課された義務となっている。
欧米語表記:mosque アラビア語転写表記:masjid
イスラーム教徒の礼拝する場所を指す。金曜日の昼の集団礼拝を行う大モスクから街角の小さなモスクや飛行場の礼拝室など様々である。マムルーク朝のモスク建築においては、いわゆる多柱式とするものは限られている。
欧米語表記:Majid al-Nabawi, Mosque of the Prophet アラビア語転写表記:al-Masjid al-Nabawī (al-Ḥaram al-Nabawī, Masjid al-Nabī)
アラビア半島のメディナにある大モスク。622年に、預言者ムハンマドは故地メッカを追われ、イスラーム教徒の共同体を率いて、メッカからメディナに聖遷(ヒジュラ)を行った。メディナのムハンマドの家は、30メートル四方ほどの中庭の南北辺に棗椰子の柱を立てて屋根をかけた簡素なもので、共同体の拠り所となり、礼拝や様々な活動が行われた。ムハンマドの家は、ムハンマドの死後、預言者のモスクとなり、世界のモスクの原型となった。預言者の遺体は、このモスクの一室に葬られ、マムルーク朝後期のスルターン・ガウリーが1476年にドームを架けた。現在はサウード家による改築によって広大な大建築となっている。
欧米語表記:wooden mosaic, parquetry
寄木天井とは、異なる木目や色の木材を組み合わせて模様を表現する寄木細工の技法によって作られた装飾的な天井を指す。マムルーク朝の作品には、小ドームなどを用いて凹凸をつくって模様を表現したり、金泥など彩色を加えた複雑なものもある。こうした寄木細工の技法は木製のミンバルにも用いられ、秀作が多い。
欧米語表記:lintel アラビア語転写表記:ataba
リンテルは垂直部材(柱、ピア、コラムなど)の上に水平に渡された部材(梁、桁根太など)を指し、日本語では楣(まぐさ)と呼ぶ。建築の基本的な構法として、楣式(梁式)、アーチ式、壁式などがある。
欧米語表記:Sabil Kuttab of Ruqaiya Dudu アラビア語転写表記:Sabīl wa Kuttāb Ruqayya Dūdū
バダウィヤ・シャヒンが、娘であるルカイヤ・ドゥドゥ(1758年没)のために建設したサビール・クッターブ。施主の夫は、オスマン朝のアミールであったラドワーン・カトフダ・アルジュルフィで、娘の死去の4年前に逝去している。ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの南門(ズウェイラ門)から城塞の正門前広場に続く目抜き通りであるスーク・シラーハ(武器市場)に面している。このサビール・クッターブは、道路に沿ってU字型を描き、石浮彫、青・緑・白のタイル、木材の打ち抜き細工などが施された手の込んだ秀作である。2020年から修復工事が始まっている。
欧米語表記:Roda Island アラビア語転写表記:Jazīrat al-Rawḍa
カイロ中心部のナイル川にある島。島の最南端には、ナイロメーター(ミクヤース・アンニール)があり、エジプトの農業にとって重要なナイル川の増減水の測量を行なっていた。また、アイユーブ朝末期には、この島にマムルーク軍団の兵舎が置かれたが、この兵舎出身のマムルーク軍団(バフリーヤ軍団)が、アイユーブ朝からマムルーク朝への政権移行の際の中核となり、バフリー・マムルーク朝(前期マムルーク朝)を建設した。
欧米語表記:turnery work アラビア語転写表記:khirāṭa
回転する装置としてのロクロ(回転する切断機)は陶芸などで用いられるが、エジプトにはロクロを用いて木材を加工する技法がある。円形の断面形が変化していく小さな部品を作成し、それらを接合して背後が透かしてみえる細工を作るもので、アラブではマシュラビーヤと呼ばれる。空気や光を透過するが、外部から内部の様子が見えない特性を利用して、住宅等の窓の格子として使われる。
欧米語表記:romanesque architecture
西洋建築史の時代区分の一つで、10世紀後半から12世紀末までの西ヨーロッパの素朴で鈍重な教会堂建築の様式を指し、12世紀後半からはより軽妙で構造的なゴシック建築へと推移するとされる。11世紀末から15世紀末まで断続的な十字軍遠征を通して、ヨーロッパのキリスト教建築と中東のイスラーム建築は相互に影響を及ぼした。
欧米語表記:waqf アラビア語転写表記:waqf
「停止」を意味するアラビア語。イスラーム法の用語としては、所有権移転の永久停止を意味し、さらには、その所有権を停止された財から上がる利益を寄進目的のために支出する、イスラーム独自の寄進制度(ワクフ制度)のことも指す。ワクフにより、商業施設や宗教・教育施設、給水施設などが建設、運営され、都市インフラが提供された。