欧米語表記:Aqmar Mosque アラビア語転写表記:Masjid al-Aqmar
ファーティマ朝末期(1125年)の中規模モスクで、宮殿都市カーヒラ北部の中央通り(現在のムイッズ通り)沿いに建設された。ファーティマ朝期のカーヒラにはこの通りを挟んで東の大宮殿と西の小宮殿があった。多柱式(柱を碁盤目上に林立させて空間を作る方法)の礼拝室と中庭(サハン)とそれを囲む周廊(リワーク)からなる。ファサードにはシーア派の一派であるイスマーイール派と関連する図像や装飾がある。マムルーク朝期には、アミール・ヤルブガーが1396年に改修を行い、ミナレットを増築したが、ミナレットが傾いたために1412年に再度改修された。20世紀に入ってからもアラブ美術の歴史建造物修復委員会の修復、1990年代にイスマーイール派ボホラーの資金による修復がなされた。レンガ造ミナレットのムカルナスのバルコニーとその下のシャフト、各ベイを覆う曲面天井はマムルーク朝の建築だと推察される。
欧米語表記:Azhar Mosque アラビア語転写表記:Jāmi' al-Azhar
ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの大モスクとして、矩形都市のほぼ中央に建設され、その後も教学の場として増築・改築が重ねられ、現在も宗教的権威をもつモスク。10世紀後半のファーティマ朝期にさかのぼる部分は、中庭の周囲と東側の天井高の低い多柱式の礼拝室である。マムルーク朝期には3つのマドラサと2本のミナレットが付設され、オスマン朝期には礼拝室がキブラ方向に大きく拡張された。2000年代に入ってからも修復が続き、サウジアラビアの基金により中庭周りは純白に姿を変えた。
欧米語表記:Qa'a Dardir アラビア語転写表記:Qā'at al-Dardīr
ファーティマ朝の宮殿の遺構とされるもので、オスマン朝の住宅の一部を占めるが、カーアの中では古いものとして位置付けられる。一方、建設年代に関しては、3部構成の両端部のヴォールト天井やアーチの様式等から、異論もある。邸宅建築や宮殿建築は、宗教建築に比べて残りにくく、改変も多く見られる。加えて、住宅様式のカーアと宗教建築に使われた4イーワーン式は類似した構成であり、相互に影響を及ぼしているため、カーアとイーワーンの関係は複雑化している。当建築の建設時期解明は今後の課題である。
欧米語表記:al-Mu'izz lil-Din Allah (Fatimid Caliph) アラビア語転写表記:al-Mu'izz lil-Dīn Allāh, Abū Tamīm Ma'ad Mu'izz b. Manṣūr, al-Khalīfa al-Fāṭimī
ファーティマ朝4代カリフ。北アフリカ一帯の征服を行い、969年にはエジプトも占領した。自身も973年にエジプトに新たに建設させた都カーヒラ(カイロ)へと移住して、東方地域への拡大、シーアの宣教活動の強化を図った。
欧米語表記:Mausoleum of Sayyida Ruqaiyya アラビア語転写表記:Mashhad (Masjid) Sayyida Ruqayya
ファーティマ朝末期の墓建築。ルカイヤは第4代カリフ・アリーの娘で、ファーティマ朝期の1133年にズウェイラ門(同朝の宮殿都市の南門)から南の死者の町を貫く通り沿いに建設された。近傍には、シャジャル・ドゥッル廟など13世紀後半に建設された廟が多い。ドームをいただく墓室の両脇に細長い部屋をもち、キブラ軸手前の横長の前室という4室から構成される。前室は円柱を挟んだポーチとなり、前室の両脇、墓室および側室の5カ所にミフラーブを穿つ。ミフラーブはスタッコ装飾で、キール・アーチ(船底型のアーチのと放射状のリブが特徴的である。ドームも内外ともにリブ・ドームを用いる。
欧米語表記:Fattimid Daynasty アラビア語転写表記:al-Dawlat al-Fāṭimīya
シーア派の一分派であるイスマーイール派が建てた王朝。イフリーキヤ(現在のチュニジア周辺)のベルベル人の支持を受け、その軍事力によって北アフリカにおいて勢力を拡大した。969年には、エジプトを征服して、新たな都市カーヒラ(カイロ)を建設して遷都した。最盛期には、北アフリカの全域、シリア、アラビア半島に勢力を拡大したが、後期には、内乱・天災などの内憂、他のイスラーム王朝や十字軍との争いという外患に悩まされ、最終的には、ワズィール(宰相)職に就いていたサラーフ・アッディーン(サラディン)によって建てられたアイユーブ朝に取って代わられた。