欧米語表記:Mosque of Aqsunqur アラビア語転写表記:Masjid Āq Sunqur
マムルーク朝のアミール・アークスンクルによって1346/7年に建設されたモスク。彼はスルターン・ナースィルに仕え、ナースィルの娘婿となり、ナースィルの死後、その未亡人とも婚姻を結んだ。モスクは、カーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)の南門であるズウェイラ門と城塞を結ぶ通りに面し、東市壁の近くに位置する。中庭を囲む多柱式のモスクであり、太いピア(構造柱)にクロス・ヴォールトが架けられている。円柱に木造平天井が架けられることが一般的であるカイロのマムルーク朝建築において、このような様式はここでしか見られない。西側のファサードの北にクジュク(1342年没、スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子)の廟、南に円形断面のミナレットがある。使われたタイルの色からブルー・モスクとも呼ばれるが、タイルはオスマン朝期の1652年に、イブラヒム・アガ・ムスタフフィザーンによって修復された際に張られたものであり、その際には、回廊の南西部にタイル張りの廟が修復者のために設けられた。20世紀末にアガ・ハーン財団による修復が行われた。
欧米語表記:Mausoleum of al-Ashraf Khalil アラビア語転写表記:ḍarīḥ Sulṭān al-Ashraf Ṣalāḥ al-Dīn Khalīl b. al-Manṣūr Qalāwūn
スルターン・カラーウーンの息子でスルターン位を継承したアシュラフ・ハリール(在位1290-93年)が、1288年にカイロの南の墓地に建設した墓建築。南の墓地には預言者ムハンマドの係累の墓が建設され、アッバース朝から招来されたカリフの墓も1243年に建設されていた。現在、併設されたというマドラサの跡形は残っていない。正方形の墓室とキブラ軸手前の奥行きの浅い前室という構成は、近傍に位置し、先例となるファーティマ・ハトゥーン(ハリールの兄サーリフの母)廟(1283/4年創建)と類似する。マムルーク朝建築のドームには珍しいドーム周囲の8つのバットレスをもち、カラーウーンの墓室のドームの復元の際にこの様式が用いられた。
欧米語表記:Mosque of 'Abd al Ghani al-Fakhri アラビア語転写表記:Masjid 'Abd al-Ghānī al-Fakhrī
スルターン・ファラジュとスルターン・ムアイヤド・シャイフの宰相(ワズィール)であったアブドゥル・ガニー・アルファフリーが1418年に、現在のポートサイード通りに面して建設したモスク。4イーワーン式のモスクであり、礼拝室には2本の円柱が据えられている。カラーウーンの礼拝室に見られる円柱を用いた3廊構成は、スルターン・バルクークの複合施設(1384-86年)と、同建築の3例が現存するのみである。三者を比較すると、次第に柱の数が減り、囲まれた部分は横長になっていく傾向が見られる。
欧米語表記:Qasr Ablaq アラビア語転写表記:Qaṣr al-Ablaq
スルターン・ナースィル・ムハンマドによって1315年にカイロの城塞に建てられた宮殿で、スルターン・バイバルス1世が1266年にダマスクス郊外に建設した、カスル・アブラク(縞模様の宮殿)にちなんで命名されたという。現在は消失している。城塞に建設された宮殿に関しては、スルターン・カラーウーンが1286年に建築した大謁見広間(イーワーン・カビール)は、19世紀初頭までは現存していたため、ナポレオンの『エジプト誌』に描き残されている。その平面は大ドームをいただく広間を柱廊が取り巻く形式であった。1985年の発掘により、その近傍にマムルーク朝のカーアが発見され、柱の銘文からスルターン・アシュラフ・ハリールの宮殿であることが判明した。アブラク宮殿に関しては、これらの近傍にあり、城下を見下ろす4つの広間をもっていたという情報が残るのみである。
欧米語表記:al-Masur Abu Bakr (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Abū Bakr b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマドの遺言によって即位するが、重臣との対立によって2ヶ月で失脚、上エジプトに流された後に殺害された。
欧米語表記:al-Ashraf Inal (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Sayf al-Dīn Abū al-Naṣr Īnāl al-'Alā'ī
後期マムルーク朝第16代スルターン。スルターン・バルクークに購入されて、彼の子飼いマムルークとなる。その後、バルスバーイの治世期の1428年にガザ総督に任命されたのを契機に、シリア各地の総督職を務め、1446年にはスルターンに次ぐ地位に就き、1453年のスルターン・ジャクマク死後の後継者争いに勝利して、スルターンとなった。彼の治世には、オスマン朝やアク・コユンル朝といった強大化する外部勢力への対応が問題となる一方で、内政は比較的安定していたと言われている。
欧米語表記:al-Manṣūr Qalāwūn (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Qalāwūn al-Ṣāliḥī
前期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バイバルス1世の息子を退けて、自身がスルターンとなった。外部勢力との関係については、モンゴル軍に対しては専守防衛、十字軍に対しては積極的な攻勢を行なった。また、カイロのバイナル・カスラインに病院・マドラサ・廟からなる複合施設を建設した。
欧米語表記:al-Ashraf Qansuh al-Ghuri (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ashraf Qānṣūh al-Ghawrī
マムルーク朝の実質最後のスルターン(後期マムルーク朝第26代)。悪化した国家財政の再建、アナトリア東南部におけるオスマン朝、紅海・インド洋におけるポルトガルといった外敵への対処を行なった。しかし、ポルトガルには1509年に海戦で敗れたことによって、インド洋交易の主導権を奪われることとなった。さらには、1516年、オスマン朝に対応するためにスルターン自らシリア北部へ出陣したが、オスマン朝軍に敗れ、撤退途中に病死した。
欧米語表記:Madrasa al-Zahiriya (Damascus) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (Dimashq)
1277年にダマスクスで没したスルターン・バイバルス1世の廟を併設したマドラサ。ダマスクスのウマイヤ・モスクの近く、サラーフ・アッディーン(サラディン)の墓所の近くにあった住宅を宗教建築に改装したもので、バイバルスの息子バラカが1277年に着工した。完成前の1279年に、バラカも没し、父親とともにここに葬られた。工事が完成したのは、1281年スルターン・カラーウーンの治世においてのことであった。中庭は3つの部屋と柱廊からなり、墓室の壁には手の込んだ色石象嵌、ガラス・モザイクなどがふんだんに使われている。また入口の石造ムカルナスの下に3層のインスクリプションが刻まれ、建築家イブラヒム・イブン・ガナーイムの名が刻まれている。
欧米語表記:Madrasa of Sultan Zahir Baybars (Cairo) アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ẓāhirīya (al-Qāhira)
1260年にスルターン位に即位したバイバルス(バイバルス1世)は、1262/3年にバイナル・カスラインに面して、アイユーブ朝のスルターン・カーミルのマドラサとスルターン・サーリフのマドラサの間に、マドラサを建設した。残念ながら19世紀末にほとんどの部分が撤去され、現在は南西隅の壁部分を残すのみである。マドラサに廟は併設されておらず、キブラ方向に長い中庭に4つの対面するイーワーンを配した4イーワーン式を採用した。
欧米語表記:Salihiyya Madrasa, Madrasa of Sultan Salih Negm al-Din アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Ṣāliḥīya
アイユーブ朝第4代スルターン・サーリフが1243年に着工したマドラサ。父カーミルが建設したマドラサに隣接する。入口通廊の両側に、2イーワーン式の建築を2棟並べて、4イーワーンのマドラサとした。サーリフが1249年に死去したのちに、妻でありマムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥルがサーリフの墓を北西の隅に付設した。カイロにおける宗教複合施設として、寄進者の墓を含む最初の例となった。マムルーク朝期にはこのマドラサは4法学派の裁判所として機能し、サーリフの廟は王朝の儀式に使用された。現在は、廟、ミナレットのある入口、北側のマドラサの一部が残る。
欧米語表記:al-Salih Salih (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Ṣalāḥ al-Dīn Ṣāliḥ b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第23代スルターン。アッサーリフ・サーリフとして知られる。スルターン・ナースィル・ムハンマドと有力アミールのタンキズ・アルフサーミーの娘クトゥルマリクの間に1337年に生まれる。有力アミールの権力闘争の結果、兄のスルターン・アンナースィル・ハサンが廃位され、スルターン位に就いた。有力アミールのシャイフー、サルギトシュ、ターズによって実権が握られていたが、ターズがサーリフの権威を利用し、他の二者を退けようとした結果、逆にシャイフーとサルギトミシュによりサーリフは廃位され、兄のハサンが復位し、ターズは失脚した。
欧米語表記:Mausoleum of Sultan Shajar al-Durr アラビア語転写表記:Ḍarīḥ Shajar al-Durr
アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの妻であり、マムルーク朝初代スルターンであるシャジャル・アッドゥッル(在位1250年)の墓建築で、夫の死後マムルーク朝の君主に3ヶ月だけ着位した。本来はマドラサ、ハンマーム、宮殿等の複合施設という記録があるが、現在は廟と後世のハンマームの遺構だけが残る。廟は正方形の部屋にドームを架けたキャノピー墓で、断面形がキール・アーチ(船底アーチ)となるドームが特徴的である。内部のミフラーブにはガラス・モザイクが用いられ、真珠の木という彼女の名前を表すかのように、金色の地に、アラベスクの植物模様の合間に真珠母貝の白い円が散りばめられている。
欧米語表記:al-Nasir Muhammad b, Qalawun (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Ṣulṭān al-Malik al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣaur Qalāwūn
前期マムルーク朝のスルターン(第10,13,15代)で、スルターン・カラーウーンの息子。兄のスルターン・ハリール(第9代)の死後に幼少で擁立されたため、当初は権力基盤が弱かったが、3回目の即位後は政敵を排除して、安定した治世を実現した。対外的には、対モンゴル関係を安定化させ、対内的には全領土を対象とした検地(ナースィル検地:1313−25年)を実施し、イクター制をとおした軍人による農村支配体制を整備し、独裁的な権力を握るにいたった。対外的な安定と、紅海と地中海をむすぶ通商路の安定により、後期を含めたマムルーク朝時代の最盛期が現出した。
欧米語表記:Mosque of Sultan Nasir Muhammad (al-Mu'izz st.) アラビア語転写表記:Masjid wa Madrasa al-Sulṭān al-Nāṣir Muḥammad (bi-Shāri' al-Mu'izz lil-Dīn Allāh)
スルターン・キトブガーによって1294年に建設が始まり、スルターン・ナースィル・ムハンマドの時代に入った1303年に完成した廟付きのマドラサ。廟にはナースィル・ムハンマドの母アシュルーンと息子のアヌーク(1340年没)が葬られ、ナースィル・ムハンマド自身は父カラーウーンの廟に葬られた。廟のドームは現在も崩壊したままであり、平天井で塞がれている。マドラサは、4イーワーン式であり、礼拝室と向かい合うイーワーンは平天井、副軸上はトンネル・ヴォールトとなっている。ミナレットとマドラサ礼拝室にあるのミフラーブ、および礼拝室と対面するイーワーン奥部のスタッコ装飾が見事であり、特にミフラーブのコンチ内部の装飾はイル・ハーン朝のスタッコ細工と類似する。入口部分は、キトブガーが十字軍との戦いに遠征した際に、アッカーから持ち帰った教会堂の入口であり、ゴシック様式である。
欧米語表記:al-Muzaffar Baybars (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Muẓẓafar Rukn al-Dīn Baybars al-Jāshankīr
前期マムルーク朝第14代スルターン。カラーウーンのマムルーク出身のアミールで、カラーウーン息子のスルターン・ナースィル・ムハンマドの退位に伴ってスルターンに即位した。しかし、即位後は他のアミールとの権力闘争に追われ、さらに復権を果たしたナースィル・ムハンマドがシリアを制圧したことを契機に逃亡した。彼がカイロに建設したスーフィーの修道場である、バイバルスのハーンカーが有名である。
欧米語表記:al-Nasir Hasan b. al-Nasir Muhammad (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Nāṣir Badr al-Dīn al-Ḥasan b. al-Nāṣir Muḥammad b. al-Manṣūr Qalāwūn
前期マムルーク朝第22、24代スルターン。ナースィル・ムハンマドの息子。ナースィル・ムハンマド没後に弱体化したスルターンの権力の回復を目指して、マムルーク以外の勢力の登用を行なったが、その途中で殺害された。マムルーク朝期最大の建築物であるスルターン・ハサンの複合施設を創建した。
欧米語表記:al-Zahir Barququ (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ẓāhir Sayf al-Dīn Barqūq
後期マムルーク朝の初代スルターン。カラーウーンとナースィル・ムハンマドの子孫によるスルターン位の継承を終焉させ、自らスルターンに即位した。当時問題となっていた財政問題の解決のために、スルターンの直轄財源の拡充などをおこない、支配体制の改革を行った。
欧米語表記:Complex of Sultan Barquq アラビア語転写表記:al-Majmū'at al-Sulṭān al-Ẓāhir Barqūq
チェルケス・マムルーク朝の開祖であるスルターン・バルクーク(在位1382–89, 1390–99)の廟を含む複合施設。バイナル・カスラインに面し、スルターン・ナースィル・ムハンマドの複合施設と隣接する形で建設された。建築家はシハーブ・アッディーン・アフマド・イブン・ムハンマド・トゥールーニーと記され、アミールのジャルカスィー・ハリーリーが監督を務めた。マドラサは4イーワーン式で、礼拝室は、カラーウーンのマドラサと同様に円柱で3廊に分割されている。円柱は側面に近い位置に並び、17.6メートル四方ある中央の部分は豊かな装飾の平らな天井で覆われる。他の3つのイーワーンはトンネル・ヴォールトで覆われている。一方、現在墓建築を覆うドームはレンガ造だが、本来は木造で、移行部は現在も木製である。建物の奥の西側には小室群があり、学生居室やスーフィーの居室に使われた。
欧米語表記:Khanqah of Sultan Faraj Ibn Barquq アラビア語転写表記:Madrasa wa Khānqāh al-Nāṣir Faraj b. Barqūq
スルターン・バルクークの息子であるスルターン・ファラジュの大規模な宗教複合施設で、カイロ城塞の東側に広がる墓地に建設された。東側の墓地には、14世紀半ば以後オスマン朝に至るまで多くの墓建築が建設された。この建築は、広大な中庭の周囲のキブラ側(南寄りの東)に多柱礼拝室、その両側に廟の大ドームを配する対称的なデザインとなっている。父のバルクークは、この複合施設内北側の墓室に葬られた。南側のドームには女性たちが葬られている。なお、中庭を囲む周廊の背後には居住施設としての小室が多数配されており、スーフィーたちの居室として用いられた。
欧米語表記:al-Mu'ayyad Shaykh (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Mu'ayyad Abū al-Naṣr Shaykh al-Maḥmūdī
後期マムルーク朝第8代スルターン。スルターン・バルクークによって購入されたマムルーク出身で、バルクークの息子であるスルターン・ファラジュ治世期の1400年にシリアのトリポリ総督に任命され、以後12年間シリア各地の総督職を歴任した。その後、他のアミールと結託してファラジュに反旗を翻し、勝利を納め、最終的に自身がスルターンに即位した。治世中は、シリア、アナトリア南東部などでの反乱の発生、食糧不足や疫病の発生といった問題への対応に追われた。
欧米語表記:al-Mansur Lajin (Mamluk Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Manṣūr Ḥusām al-Dīn Lājīn al-Manṣūrī
前期マムルーク朝第12代スルターン。支配基盤を固めるために、マムルーク朝初となる検地(フサーム検地)を行い、イクターの再配分を行なった。しかし、その再配分がスルターンとその直属の部下に偏っていたことが不満の種となり、反対勢力によって暗殺された。また、カイロのトゥールーン・モスクの大規模改修とワクフの設定を行なったことでも有名である。
欧米語表記:Mausoleum of Fatima Khatun, Mausoleum of Umm Salih アラビア語転写表記:turbat Fāṭima Khātūn, turbat Umm al-Ṣāliḥ 別称:ウンム・サリーフ廟
1283年に創建された、スルターン・バイバルス1世の妻であるファーティマ・ハトゥン(1284年没)の廟。マドラサと共に建てられ、マドラサの入口部分とミナレットは現存している。廟は方形のドーム室であるが、通廊と前室をもつ。この廟と、スルターン・カラーウーンの廟(1284年)、アシュラフ・ハリール廟(1288年)はいずれもスルターン・カラーウーンが関与したとされるドームで、その外観に同様の八角形のドラム(ドームと基部をつなぐ部分)を持つ。このため、カラーウーン廟の復元の際にはハリール廟の外観が採用された。しかし、内部の移行部(基部の方形断面とドームの円形断面をつなぐ部分)は、それぞれ異なっている。3者に共通する点は円形のモチーフを多用する点で、特に前2者では2連アーチの上部に円形を設け、それらを囲むアーチというモチーフが共通する。このモチーフは、イベリア半島、南仏、イタリア半島のロマネスク建築との関連を示唆する。
欧米語表記:al-Maqrizi, Taqi al-Din Abu al-Abbas Ahmad b. 'Ali b. 'Abd al-Qadir b. Muhammad アラビア語転写表記:al-Maqīizī, Taqī al-Dīn Abū al-'Abbās Aḥmad b. 'Alī b. 'Abd al-Qādir b. Muḥammad
カイロ出身のウラマー(イスラーム知識人)であり、マムルーク朝期を代表する歴史家。マドラサの教授職やムフタスィブ(市場監督官)といった役職を勤めたが、後半生は著作活動に集中した。彼の著作は、同時代に襲った飢餓、ペストの流行、政情不安といった社会情勢を記すだけでなく、それらの事象に対する批判・分析や解決策の提示を行なった点で特筆される。主要な著作にはエジプト誌を集成した『街区と遺跡の叙述による警告と省察の書(al-Mawāʿiẓ wal-Iʿtibār bi-Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār)』(通称:マクリーズィーのエジプト誌 Khiṭaṭ al-Maqrīzī)や、年代記の『諸王朝知識の旅(Kitāb al-Sulūk li-Ma'arifa Duwal al-Mulūk)』などがある。
欧米語表記:Mamluk Daynasty アラビア語転写表記:Mal-Dawlat al-Mamālīk
白人軍事奴隷であるマムルーク出身者による王朝。もともと仕えていたエジプトのアイユーブ朝に対してクーデターを起こすことで政権を獲得した。そのため、誕生当初は既存勢力にその正統性を疑問視されていたが、侵攻してきたモンゴル軍の撃退、メッカ・メディナ両聖都の支配、亡命してきたアッバース朝カリフの保護と擁立などを通じて「スンナ派イスラームの擁護者」として政権基盤を確立した。支配体制、マムルークの出身民族の違いから、キプチャク系トルコ出身のマムルークとその子孫が中心である前期をバフリー・マムルーク朝(1250-1382年)、コーカサス地方出身のマムルークが中心である後期をチェルケス・マムルーク朝(1382-1517年)と区分するのが一般的である。1517年にオスマン朝によって滅ぼされた。