欧米語表記:Ayyubid Daynasty アラビア語転写表記:al-Dawla al-Ayyūbīya
エジプト、シリアを中心に、ジャズィーラの一部、イエメンを支配したスンナ派の王朝。カイロに都をおいた。創始者のサラーフ・アッディーン(サラディン)(在位1169−93年)はザンギー朝に仕える軍人であったが、1169年にファーティマ朝の宰相に任命され、71年にはファーティマ朝カリフを廃して、アッバース朝カリフの宗主権を認めるスンナ派の支配体制を復活させた。その後シリアからジャジーラへと配権を広げたが、拡大した領土は一族に封土として分与されてその支配が任されたため、彼の死後に同王朝の領域は分割され、半独立の政権が樹立され独立君侯国の連合体という体制となった。実質的に最後のアイユーブ朝スルターンとなったサーリフ(在位1240−49年)は、多数のトルコ人マムルークを購入し、バフリー・マムルーク軍団を創設した。1249年にサーリフが没すると、翌年に起こった彼らのクーデターにより同王朝は滅亡した。その後のマムルーク朝は、サラーフ・アッディーン(サラディン)によりエジプトに導入されたイクター制やスンナ派の統治体制などを継承し、発展・整備されていった。
欧米語表記:Chapel of Krak des Chevaliers
シリアの十字軍の城塞の内部にある教会堂で、1142年から71年まで聖ヨハネ騎士団が占拠した時代にさかのぼる。1271年にマムルーク朝のスルターン・バイバルス1世が奪還し、教会からモスクに転用された。城塞の北部に位置し、東側にアプスを持ち、3部のトンネル・ヴォールトで覆われた細長い部屋である。モスクに改装されたときに、南壁に石造のミフラーブとミンバルが付設された。その方角は、教会堂は通例では東を向いて建てられるので、シリアではメッカの方角が南であったことに由来する。
欧米語表記:Citadel of Cairo/Citadel of Saladin アラビア語転写表記:Qal'at Ṣalāḥ al-Dịn al-Ayyūb bil-Qāhira (Qal'at al-Jabal) 別称:サラディンの城塞
アイユーブ朝のサラディンによって、ムカッタムの丘陵に建設された城塞。サラディンは、十字軍に備えてカーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)とフスタート(アムルのモスクを中心とする南の市街地)を包み込む市壁を計画するとともに、軍事的基地としての城塞を建設した。城塞は北と南からなるが、アイユーブ朝にさかのぼるのは北の城塞で、マムルーク朝期に南への拡張が進み、南に諸宮殿やスルターン・ナースィル・ムハンマドのモスクが建設された。オスマン朝末期には南に宮殿等の諸施設が並び、北は軍人が住む市街となっていた。ムハンマド・アリー朝に城塞としての改築が進み、南の囲いのマムルーク朝の宮殿を壊してムハンマド・アリー・モスクが建てられ、北の囲いは市街を一掃してハーレムとなった。
欧米語表記:Adil I (Ayyubd Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-'Ādil Sayf al-Dīn Abū Bakr Aḥmd b. Najm al-Dīn Ayyūb
アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーン(サラディン)の弟で、第4代アイユーブ朝スルターン。シリア方面への遠征を頻繁に行なっていた兄に代わってエジプトにおける政務を行い、また統治に対して助言を行うなど一族の中でも特に信頼されていた。サラディンの死後、当初はサラディンの息子たちを補佐していたが、対立が深まり、最終的に自身がエジプトとダマスクスを支配下に置き、他の王族に対する優位を示すためにスルターン位に就くことを宣言した。
欧米語表記:Madrasa of Sultan al-Kamil アラビア語転写表記:al-Madrasa al-Kāmilīya
アイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(サラディン)の甥で第3代スルターン・カーミルがバイナル・カスラインの北側に建設したカイロで初めての2イーワーン式のマドラサ。シーア派のファーティマ朝にとってかわったアイユーブ朝は、11世紀末からセルジューク朝で推進されたマドラサを建設し、教学の場とした。マドラサの建築形式として、ペルシアを起源とする4イーワーン式や2イーワーン式は、12世紀のダマスクスやアレッポなどに導入され、13世紀になってカイロにまでその影響が及んだ。2イーワーン式は中庭の軸上に対峙するイーワーンを配したものである。
欧米語表記:al-Salih Najm al-Din (Ayyubid Sultan) アラビア語転写表記:al-Sulṭān al-Malik al-Ṣāliḥ Najm al-Dīn Ayyūb
アイユーブ朝第7代スルターン。即位に際して、アイユーブ家の中で内紛が起きたが、十字軍と同盟したアイユーブ家の王族に勝利して、エルサレムとダマスクスの占領に成功した。また1248年には、フランスのルイ9世がエジプトに侵攻して来たために出陣したが、その陣中で没した。治世を通じて、十字軍、他のアイユーブ家への対抗のために軍事力強化、特にマムルーク軍団の拡充に努め、そのマムルーク軍団がマムルーク朝創建の中核となった。